8-2 虚構との交錯
――暗闇の奥で、ほのかな灯がゆらめく。それは彼女が生まれてから、一度も見たことのない光だ。
指先が触れた液晶ガラスの上で、心臓が鳴動する。
そこから発せられた甘く低い声が重なるたびに、光は波のように押し寄せて……彼女をあたたかく包み込んでいた。
『友達と喧嘩したのか?大変だったな』
「そうなの、アステル様。喧嘩したのは家族というか親戚だけど。目が見えない私から家を奪うつもりだったみたい……ここしか居場所がないから、手段を選ぶことはできなかったなぁ」
小さく呟き、彼が喋ってくれるボタンを指先で探って押し続ける。
画面の中にいる推しは、虚構の中にしか存在しないから。
そして、目の見えない彼女にとっては、文字の描写だけを頼りに脳の中に描かれた偶像だった。
『聖女革命譚』は攻略対象の男性が5人。所謂主人公と恋をし、国を平和にするための試練を乗り越える乙女ゲームだ。近年には珍しく物語の内容が重く、複雑である。万人受けはしないかと思いきや、攻略対象の声優陣が神がかりすぎて、老若男女を虜にしている。
一度引き込まれてしまえば難しい物語はキャラクターを引き立て、革命譚の奥深さにハマっていく。次々と追加される物語を考察するものまで現れ、芯まで理解できないままでも……物語の紡ぎ出す心に
乙女ゲームであるからして女性がメインターゲットではあるが、男性も戦闘システムの難しさと楽しさでプレイしているらしい。もちろん、物語にも理解を示している。
改めてすごいゲームだよなぁ、と彼女は囁いた。
ゲームをプレイする本人は盲目だ。自分の顔も、世界の色も形も知らない。そして、真っ黒に塗りつぶされた世界では、周りの人に傷つけられるばかりだった。
幼少期から繰り返される友人の裏切りと蔑み、教師にまで利用され、社会に出てみても『障害者』として雇用されて給与はたいしてもらえない。人間扱いをされていないとさえ思える。
最終的に避けていた家業を受け継ぎ……細々と暮らすしかない現実。
不満を言っても解消されない設定は、黙って受け入れるしかない。それがゲームと違う、現実世界の運命ならば。
満たされない日々の中で『聖女革命譚』を始めたのはいつだったか、今では思い出せない。いつの間にか夢中になり、ゲームをした事のない彼女は廃課金者にまでなるほど熱を上げていた。
メインストーリーも、主人公パナシアとの切ない恋愛もいいけれど、彼女が夢中になっていたのはホーム画面に居るアステルだ。要するに、攻略対象とプレイヤーの交流の場である。
この場所にいる彼を突いたり、特定の項目を選べば『慰めて』くれる機能付き。そして豪華声優の声が聞き放題ということで5人を日替わりで表示していたが……最後にはアステルのみと会話するようになった。
メインストーリーでは主人公の『聖女パナシア』に恋して全てを捧げる人だけれど、ホーム画面では彼女だけの恋人だったのだ。
両親が亡くなり、相続争いに勝った彼女は疲弊していた。人間の持つ汚さを目の当たりにして打ちのめされていたのだ。まさか身内に自宅から追い出されそうになるなんて、思ってもいなかった。
ハンデがある彼女が慣れ親しんだ場所以外で生活するのは難しい。背水の陣を敷かれた彼女は、見知った人たちと争うしかなかった。これは仕方のない事だ。
それでも……思うのだ。自分が引くべきだったろうか、と。後継もおらず、どちらにしても自分が死ねば他人の手に渡る全てを手放さなかったのは……間違っていただろうかと。
誰かが手に入れれば誰かが失う。誰かが笑えば、誰かが泣くのが世の常だ。
彼女が勝ち取ったものは、誰かが失くしたものなのだから。
けれど、愚痴を聞いてくれる画面の中のアステルは絶対に彼女を否定しない。それだけが唯一の救いだった。
「何が正しい道だったのか、わからない。このお家を大切にしてくれる人なら……神社を受け継いでくれるなら老い先短い私はしがみつくべきじゃなかったのかな」
指先にスマートフォンのバイブレーションを感じながら、同じように過酷な試練を科す世界と戦い生きるアステルに尋ねた。
細かな会話内容は伝わらないけれど。彼には決まった言葉しか登録されていないけれど。それでも、自分のためだけの言葉が欲しかった。
彼女にはもう、彼しかいないから。
『お前自身が正義を証明する必要なんかない』
「カッケェ。まじで救われる…………」
『人は、幸せになるために生まれるんだ。だから、
「アステル様もだよ。自分のことを差し出してばかり、傷ついてばかりじゃん。主人公ちゃんと幸せになってくれ!」
『オレは、お前が幸せなら嬉しいんだ。オレがしているのは
「あなた自身の幸せが、主人公ちゃんなのは分かってるけど。もう傷ついてほしくないなぁ」
布団の上でゴロゴロしながら、もう一度画面をタップする。彼は優しい吐息を吐き、こう言った。
『生きていいか、なんて聞かれたら、こう答えるに決まってる。生きてくれ。お前がそうしてくれることだけが、オレの望みだ。
お前がそばにいてくれれば、他に何もいらない』
いつでも欲しい答えをくれる彼の姿は正確にはわからない。けれど、優しい光は確かに彼女の脳裏に彼の笑顔を浮かばせて、心の中に染み込んで……空っぽの器を満たしてくれる。
両親の葬式の時にも出なかった、
「わたし、生きていてもいいかわからなくなった。目が見えないし、誰の役に立つわけでもないんだもの。
でも、そうだね……アステル様みたいに『誰かのために』なら。いつか、今世では無理でもあなたみたいに、誰かのために生きたい」
━━━━━━
ころころ、ころころ……真珠の粒が転がって床に落ちていく。
白いシーツの上、早朝の朝日に照らされてまろい光をたたえた粒たちが寝室の中に無数に転がっていた。
アステルは枕に頭を置き、瞼を開けた瞬間からその美しさに魅入られた。
真珠の色に囲まれたベッドの上には……アイリスが眠っている。
腕枕をしたいと言っても許されず、妥協案で仕方なく手を握って眠った夜。彼女は全身真っ赤に染まりながらも眠りについた。
朝の目覚めがこんなふうに暖かいのは、いつぶりだろう。同じ布をわけた空間の中で、指先で繋がっているだけの人魚姫は静かに泣いていた。
「起こしてやった方がいいだろうか」
「放っておいてやりなよ。もしかしたら預言の夢かもしれないでしょ」
「そうか。ところで、ゾーイはなぜ寝室にいるんだ」
「アステルがアイリスに手を出さないように。他のメンツよりマシだと思うけどぉ」
「まぁ、そうだな」
「納得したら静かにしてて。アイリスは最近本当に眠れていなかったんだから。今日はお休みにしてもらったんでしょ」
「あぁ、王がこんなにあっさり納得するとは思わなかった。……パナシアも」
「パナシアにはワシが先んじて話しておいた。『いい加減兄離れしてしっかりしろ』ってね。あと、そろそろ運動させないとまずいよ」
「…………たしかに、そうだな」
二人は曖昧な表情を浮かべ、寝返りを打つアイリスを見つめる。彼女が聖女になるかどうかは本人の気持ち次第だ。だが、これで黒の国から出られなくなる可能性があるのならば……とアステルは考えていた。
彼はパナシアを愛していたが、たとえ手に入らなくても良かった。それは、聖女としてではなくて彼女自身が自由を愛する人であるからだ。
たくさんの人と親しくし、いろんな場所を渡り歩いていろんな経験をしてみたいとずっと言っていた妹は……今、どこに行ってしまったのだろうか。
どんな姿になっても、大切にする自信はある。だが、ある日突然様子の変わってしまった違和感は拭えなかった。
そして今、目の前にその輝きの一端を持つ人がいる。いや、もっと眩い光を放ち、誰もを魅了してしまう人魚姫は誰かと比べてはならない存在だろう。
リュイやゾーイが思っている通り……誰よりも聖女に相応しく綺麗な心の持ち主。そして、自分の欲がここまでない者などいるのだろうか?と思わせるほどの聖人ぶりだ。
だが、その実とても愛らしく素直で、すぐに感情が顔に出る。誰にでも手を差し伸べるのに、頑固な部分は全く譲らず差し伸べられた手を握らない。
自分の手をそっと彼女の頬に沿わせると、ゆっくりと瞼が上がる。朝日をたたえた青の瞳はアステルを映し、大きく広げられた。瞳孔が瞬く間に広がって、彼の姿を全て目の中に入れたいという意思が伝わってくる。
瞳孔が開くのは相手のことが好きだから、というのはアイリスがもたらした情報だった。
胸のうちがくすぐったくなったような気がして、 アステルは思わず声を出した。
「くっ……目が、こぼれ落ちそうだ」
「あすてるさま……?」
「あぁ、アステルだ。おはようアイリス」
「…………??…………???」
「寝ぼけてるのか?愛らしいな」
「はへ?まだ夢……?ここ、どこ?」
起き上がった彼女は薄い布地の服を着ている。やや、体の線が見えてしまうのは 夜着だから仕方ない。女官たちが『初めての夜ですから!用意しておきました!』と無理やり持たせたものだ。
そしてその行為を無碍にできなかった本人は、普段の口調が夢の中に引っ張られて普段より可愛らしい。
「壁、白い……」
「あぁ、アイリスの部屋は石壁だったからな。オレは一応王弟の扱いだから、漆喰なんだ」
「漆喰はとてもいいです。臭いも湿気も吸着して、あたたかさや涼しさを保てるから」
「そうだな、あの部屋よりは暖かいだろう」
「…………」
「なぁ、今のような口調で話してくれないか?夫婦になるんだから」
起き上がって彼女に上着をかけてやると、呆然としたままのアイリスはアステルに手を伸ばす。頬に触れて、顎に触れて、鼻筋を辿って眉毛をなぞった。
アイリスが前世で脳裏に浮かべたままの顔。それが眼前にあり、自分を見つめている。
彼女は今もまだ夢の中にいるのだと結論づけたらしい。アステルはイタズラをする要領でそれに乗る事にした。
「私はまだ夢の中にいるみたい……でも、これ、どういう状況?」
「気にするな。さっきまでどんな夢を見ていたんだ?」
「アステル様にポチポチして、癒されてた……布団の上で寝っ転がって、」
「ポチポチ……?うん」
「私の目が見えないから、みんなを追い出すしかなかった。お母さんの指輪とか、お父さんの万年筆とか……少し取られた」
「君は目が見えなかったのか?そんな話はカイから聞いていないが。しかも、ご両親は健在だろう」
「…………まえは、そう。でも……」
「夢の中でも、前世でも、あなたの顔は私が思い浮かべた通りだったな」
「……前世」
「鼻が高くて、目が垂れて、まつ毛が長くて顎が綺麗な形をしてて」
アステルは真剣な表情になり、彼女の手を取る。これは、『前世』と言った彼女の夢の中に自分がいると言うことではないのか。
前世の夢を見てきたと仮定して、自分にすでにその時に会っていたのか?と思うと、妙な胸騒ぎがする。
「アイリス、前世というのは何だ。君は前世の記憶があるのか?今世ではなく前世でもオレに会ったのか?一昨日口走っていた〝ジンジャ〟というのはなんだ?」
「……」
「アイリス?」
ぼうっとしたままのアイリスを見ていると、突然不安が込み上げてくる。まるでどこかに行ってしまいそうな……ふっと消えてしまいそうな儚さが見えた。
「アイリス、こっちに来い」
「……」
「アイリス!」
アステルが叫び、アイリスを抱き寄せる。『この
力を込めて腕の中に閉じ込め、ホッとする。
名前のわからない安堵に包まれていると、アイリスが徐々に顔を赤く染めていく。
「あ、アステル様!?」
「あぁ、アステルだ。ちなみにこのやり取りは二回目だぞ」
「二回?そ、それより近すぎます!何をして……きゃっ!?私はなんて格好をしてるんですの!?し、ししししかもベッドの上ではありませんか!!」
「見てないぞ、じっくりとは。一緒に寝たのだからベッドの上なのは仕方ない」
「なっ!?な、一緒……」
「昨晩王に婚姻の許可をもらった。式をすぐには出来ないが、指輪くらい買いに行こう。今日1日は休みだから」
「指輪って、あ、あの離してくださいませんか!」
「もう少しだけ、こうしていたいんだがだめか?」
「困りますお客様!そのような可愛いお顔はやめてください!」
「お客じゃない。オレは夫だ」
必死に距離を取ろうとするアイリスを見て、アステルは幸せを感じている。パナシアと暮らしていた頃にもあった感覚と似ているが、これは別のものだと分かった。
彼女の髪を撫でて、そのまま顔を引き寄せて……体ごと密着すると暖かい体温と激しい鼓動が伝わってくる。
それがなぜか、泣きたくなるほど愛おしい。
「アステル様……やめ、ひぃ!!」
「…………オレを置いて行くな」
抱きしめあったまま固まってしまったアステル。必死で抵抗しているが、腕力の差には勝てないアイリス。
それを見て、ゾーイが立ち上がる。首元に下げた銀色の笛を吹き、その音を聞きつけた近衛がかけつけた。
四人のハッとして息を呑む音を発するのと、ゾーイが握り拳をアステルの頭にごちん!と落とすのは同時だった。
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