第2話 過去の温度
高校の教室の匂いは、ずっと残っている。
消毒液と、ほこりと、冬の朝の冷たさと、誰かが落とした鉛筆の芯のにおい。
記憶はあいまいなくせに、そういう些末なものほど、鮮明に戻ってくる。
真は、静かなやつだった。だけど、妙に場の空気を読むというか、教師の機嫌の悪さを察してノートを差し出したり、誰かが怒られそうになると冗談で割って入ったりする。
「お前はやさしすぎる」と言うと、「お前が冷たいから、バランス取れてるんだよ」と笑っていた。
僕は、きっと真から処世術を学んだのだと、今になって知った。
大学に入ってからも、たまに会った。けど、そのうち真からの連絡が減った。理由は、わかっていた。
彼の母親が倒れたときも、僕はただ「それは大変だな」と言っただけだった。何をしてほしいか訊かなかった。何もせず、何も言わず、気まずくならない距離を保っていた。
それが“優しさ”だと、どこかで思っていた。
──違ったのだろう。
夏実と会ったのは、日曜の午後だった。駅の改札前、白いマスクをした小柄な女性がこちらに頭を下げた。
手に、小さな紙袋を提げていた。
「これ、兄の遺品の中に……堀江さん宛てのものがあって」
受け取ると、封の切られていない便箋が入っていた。封筒には、何も書かれていない。ただ中に、一枚だけ折られた手紙。
僕は、すぐには読めなかった。公園のベンチに座り、手紙を膝の上に置いたまま、じっと空を見ていた。冬の午後は、雲のかたちまでが無表情だ。
「兄、最後まで、堀江さんの話してました。あの人、人に執着しない人だったから、ちょっと意外で……」
僕は頷くふりをしただけだった。声が出なかった。
夜になってから、ひとりで部屋に戻って、封を切った。
文字は、真の筆跡だった。まっすぐで、几帳面な、無駄のない字。
そこに書かれていたのは、恨みでも怒りでもなかった。ただ、淡々とした観察だった。
おまえは、誰とでもうまくやれるけど、誰とも本当には繋がっていない。
たぶん、おまえはそれでいいんだろう。俺には、それができなかった。
俺は、おまえみたいになれなかった。だから、こうなった。
でも、最後に一度だけ、おまえに届く言葉を書きたかった。
もし届かないなら、それも、仕方ないことだと思う。
言葉は、静かだった。でも、その静けさが胸に響いた。
人に合わせて生きることは、ひとを傷つけないためだと思っていた。
けれどその実、それは、誰の痛みにも触れずに生きることだった。
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