世知の人

路地表

第1話 空白の輪郭

 笑っている。

 いつものように、誰に向けたとも知れぬ笑みを口元に貼りつけて、グラスの縁を濡らしながら頷いている。冗談が面白いのか、相づちが礼儀だからか、そのどちらでもない。ただ、そうしているのがいちばん角が立たないと、身体が覚えてしまっている。


 広告代理店という空間は、表情が硬直する場所だ。誰かの機嫌に合わせて、どこかの不機嫌を読み取って、必要なことを必要なぶんだけ口にする。僕はその“必要なぶん”が正確だと、よく言われる。

「堀江さんって、ほんと空気読むよね」

「上司受けも部下受けも完璧って感じ」

 そう言われるたびに、何も言わず微笑むのが癖になった。


 今夜も、飲み会の円卓の向こうで結城さんが声高に笑っている。僕は、斜め向かいに座る部下の八木が注文を迷っているのを察して、「それ、頼んでみたら?」とやわらかく促す。

 彼女は、あ、ありがとうございます、と小さくうなずく。それでひとつ、会話が埋まる。

 ささいなこと。だが、そういう繕いで、人間関係の縫い目は保たれていく。


 ふと、横から声がした。


「……なあ堀江、おまえって怒ったことあるか?」


 不意だった。聞き返すと、結城さんが酔った頬を手の甲でぬぐいながらこちらを見ていた。


「いやさ、さっきから見てて思ったんだけど、おまえ、誰にでも笑ってるだろ? あれってさ、なんなの?」


 場の空気が一瞬、止まる。グラスを置く音すら聞こえる気がした。


「……癖ですかね」


 僕は、笑ったまま答える。無感情のなかに言葉を落とす。結城さんは「そっか」と言ってまた笑い出し、誰かに話題を投げる。元の喧噪が戻ってきた。たったそれだけの会話。だけど、耳の奥にいつまでも残っていた。


 その夜、帰宅して、ベッドに身体を沈めたとき、久しぶりに自分の顔が思い出せなかった。


 鏡を見るのが、苦手だ。何かが映っている。けれど、それが“自分”という確信が持てない。ただ、社会的な顔――仕事用、家庭用、恋人用、上司用――そういった仮面を何枚も重ねた果てに、どれが“本物”なのか分からなくなる。


 スマートフォンが震えた。画面には、見慣れない名前が表示されていた。

「岩淵夏実」――誰だったか、一瞬わからなかった。


 出ると、やわらかい女性の声がした。


「堀江さんですか。あの、岩淵真の……妹です」


 その名前で、時間が止まった。僕は口を開けたまま、言葉を失っていた。


「兄が、亡くなりました。三日前、自宅で。……自殺でした」

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