旅人エルフと狐の付き人
籠目瞳(カゴノメ)
第一章 ありがとうを禁止された国
第1話 行商人
青々と生い茂った草が一面を覆い尽くし、まるで緑の絨毯のように、どこまでも、どこまでも続いていく。頭上には大きな青いキャンバスの空が広がっており、その上をいくつもの筋雲がどこかを目指してゆっくりと、ゆっくりと進んでいた。
そんな絵に描いたような
バターブロンドの金の髪から覗く耳は、長く尖っており、上には半袖カーディガン。ボトムにはデニムのフレアスカート。脇にはブラウンのリュックサック――と、都会の人然とした格好をした彼女は、伸ばしていた腕を脱力させて地面に下ろすと、横にいる付き人に向けて言った。
「ルアンも休めばいいのに。草の上で寝るの、最高に気持ちいいよ」
彼女に、ルアンと呼ばれた付き人は、前脚を揃えた実直な姿勢のまま、毅然とした表情で彼女に言葉を返す。
「俺は守護獣として、ベルという主を守る義務があるからな。無防備な姿を晒すわけにはいかねえ」
付き人は凛とした佇まいを崩すことなく、草の上に寝転がる少女を見下ろし、やがて一つの大きな溜息を吐いた。
「だというのに、この主は……」
ルアンの主こと、草原の真ん中で堂々と背中をつけて転がっているベルという名の少女は「あ。あの雲、魚みたい」と空を指差し呑気なことを
――魚みたいな雲がゆっくりと大海原を泳ぎ、地平線の果てへと吸い込まれて行く。
「おい、そろそろいい加減起き上がれ。でないと日が暮れるぞ――」
あれから随分と長いこと主の寝顔を見守り続けた付き人が、痺れを切らして声を上げた。そのとき、彼の縦に真っ直ぐ伸びた大きな耳がピクリ、と動く。主もそれに気が付いたらしく、横に突き出した長い耳が、僅かに反応した。
「誰か来る。早く帽子を被れ」
「言われずとも」
少女はよっこいせと起き上がると、脇に置きっぱなしにしていたリュックサックの上の、グレーのキャスケット帽を頭から被る。彼女の特徴的な長い耳が、器用に収納された。
やがて少しして、付き人が言ったように、彼女たちの後ろから荷車を引いた一人の男性がやってきた。荷車の上にはりんごやオレンジといった果物が積まれている。
「行商人さんかな」
少女がリュックサックに腕を通して付き人に聞く。
「かもしれねえな」
付き人は少女の方を見向きもせず、その行商人らしき男性をじっと見つめて返す。男性は前を見ているので気づいていないが、後ろの荷物はぐらぐらと、不安定に揺れている。荷車の車輪が重たく沈んでいる。
「あれは、崩れるな――」
彼がそう言い終わらないうちに、荷車は果物の重みに耐えきれず倒壊した。あれよあれよという間に果物が草原の上を転がっていく。男性は後ろの現実を認識すると頭を抱えた。そして、その場に手を付いた。
「見ていられねえな」
「行こう、ルアン」
そう言って、ベルはキャスケット帽を深く被り直し男性の元へと向かった。
「大丈夫ですか」
唐突に頭の上からかけられた声に、男性は驚いて顔を上げる。面長の輪郭に、顎には無精髭。その目には涙が溜まっていた。
「行商人さん……ですか」
ベルが問いかけてやれば、男性はこくりと力なく頷く。
彼女は今一度、果物たちが派手に散らばっている草原一体を見回した。すると、それまで無言を貫いていた男性が弱弱しく零した。
「あの果物を、この先にあるポルカスという国に届けるはずだった……」
「ポルカスって……」
ベルはその単語に聞き覚えがあった。昨日まで滞在していた国の名前だ。確かあそこは食べ物が潤沢でなく、ひもじい思いをした覚えがある。
「しかし、荷車がこれではどうしようもない……」
男性は地面の上に横絶えている壊れた木のガラクタを見遣って大きく溜息を吐いた。確かにこれでは仕事どころではないだろう。たとえ果物を回収したとしても、荷車がこれでは運ぶことができない。彼が絶望するのは当然のことと言えた。
この惨状を前に、ベルは少し思案するように顎に手を当てがって、「んー」と小さく唸ると、やがて悲嘆に暮れている行商人の男性に顔を向けて言った。
「ぼくがどうにかするので、取引しませんか」
「ん……? 取引?」
「そうです、取引。ぼくに、果物の一部を少し分けてください」
ベルが、散乱している果物をびっと指さして取引条件を突きつける。ルアンが大きく欠伸をした。
「別に構わないが……、どうにかできるのか?」
「できます。どうですか?」
やけに自信満々の彼女に、行商人はわずかに一抹の不安を覚えたが、断る道理がない。今は、藁にも縋りたい。
「なら頼む……。どうにかしてくれ」
男は頭を地面に擦りつけ、平身低頭自分より年若そうな少女に懇願する。
ベルはその様子を見届けると、荷車の方に歩みを進めた。そして、途中でくると振り返って言った。
「あ、あと追加で……、行商人さんが来た国を後で教えてください」
顔を上げた男性が、確かに頷くのを認めたベルは、
「
すると、木材の塊へと成り果てていた荷車は、直後輪郭を得たように光り輝くとひとりでに動き出し、ゆっくりと元の位置に収まるように組み立てられていく。彼女の一言で、ものの僅かもしないうちに荷車は元通りに治っていた。
「まさか……、魔法使いだったとは――」
行商人の男性は目を二度三度と
「いえ、違います。ぼくは――」
「旅人です」
魔法によって荷車を戻したベルは、地面に散らばった果物たちを拾い集めていく。それまでぼーっと彼女の動きを見ていただけの行商人の男性は、ハッとして気が付くと、鞭打たれたように、彼女に並んで果物を拾い始めた。
遂に、全ての果物が荷台に載せられた。
「いやあ、助かった。君がいなかったらどうなっていたことか。もしよろしければ名前を聞かせてくれないか。私はフリックだ。お察しの通り、行商人をしている」
「名乗るほどの者でもないですよ」
フリックと名乗る男にそう聞かれ、ベルは曖昧にして返す。もちろん、謙遜の意味もあるが、旅人としておいそれと名前を明かすのは違う気がした。知らない異性に名前を教えるということへの危機感もある。
「頼むよ、恩人の名前を知らないままってのは許せない性分なんだ」
しかし思いの外、フリックは食い下がる。別に教えてやってもよいが、ここまで露骨だと逆に名乗りたくなくなるのは彼女の精神がまだ未熟だからだろうか。いい加減鬱陶しくなって、横にいるルアンが牙を剝き出し威嚇の声を上げ始める。
「ではそうですね……」
ベルは少し思案するように首を揺らし、そうして言った。
「また会うことがあれば、そのときに。ぼくたちは旅人で、あなたは行商人ですから、いずれどこかで会うこともあると思います。そのとき、もし覚えていたら教えますね」
フリックはそれを聞き、納得しかねる渋い顔を浮かべたが、彼女がこれ以上取り入る気はないと察したのだろう。「そうか」と頷き言った。
「なら、私は覚えていよう。ここまで生きてきて、恩人の顔を忘れたことは一度たりともないからね」
フリックは胸を張るようにそう言い切って、荷台に回収した果物から十個ほど取り出し、袋に詰めるとベルに渡してきた。
「取引をしたからね。これは荷車を直してもらった、その対価だ」
「わああ、ありがとうございます!!」
ベルは受け取ると、中の果物たちを見下ろし、瞳を輝かせる。採れたてらしい果物たちは、鮮度抜群で瑞々しい鮮やかな色を放っており、見るからに美味しそうだ。
「これでしばらく食い繋げるね、ルアン! 」
「もって二日が精々だろ」
「そんなことない……よ。多分」
「そこは自信持って言えよ」
ルアンが呆れて溜息を吐く。そんな愉快なやり取りをしている彼らの横で、フリックは荷車を引く準備を整えていた。
「じゃあ、私は行くよ。日が暮れる前にポルカスに着かなければだし。キャスケット帽の旅人と狐。君たち恩人のことは忘れないからね」
そう言ってフリックは、少し軽くなった荷車を引いてベルたちの元から去りかける――が、少し進んでから、止まって振り返った。
「あ、そうそう。すっかり忘れていたよ。私が元来た国を教えるのも取引条件の一つだったね」
ベルとルアン。普段、考えが交わることのない二人だが、この一瞬だけは同じことを考えた。
――こいつ、次会ったとき絶対忘れてるな。
「この平原をずーっと先に進んだところに、ファリストという国がある。私はそこからこの果物たちを運んできたんだ。もし、君たちもそこへ向かうつもりなら、気を付けて」
そう言うと、フリックは今度こそ荷車を引いてポルカスに向けて歩みを進め始めた。
「ありがとうございます! フリックさんもお気をつけて!!」
ベルが大声で別れの言葉を投げ掛けてやれば、フリックは振り返ることなく親指を立てて返し、去っていった。
その、遠くなる背中を目線だけで追いかけていたベルが、ふと思い出したようにルアンに聞く。
「そういえばフリックさん、さっきファリストに向かうなら気を付けてって言ってたよね。どういうことだろう」
「さあな。恩人に対して、ありがとうの一つも言えねえやつの言うことなんか、知ったことかよ」
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