おとな負けヒロインは『好きな人』の居場所になりたい

麻生燈利

第一章 黒猫の親愛と翡翠のイヤーカフ

001 福利厚生は、美肌の湯に森の恵み取り放題?




 月陰つきかげの窓辺に、黒猫が一匹。


 壮齢の魔法使いが淡い光とともに現れ、黒猫に向かって微笑んだ。その時、一枚の用紙がふわりと風に乗る。


「新しい風が吹く。この森にふさわしい、緑色の風だ」


 さらりとした夜風がひげを揺らし、森を吹き抜け、葉擦れの音が遠ざかっていく。


 黒猫は静かに瞳を閉じる。


 少しの不安と、わずかな希望。

 停滞していた時間が流れ出す。――そんな予感がした。

 



 ***

 



 椎名しいな葉月はづきは、蒸し暑い地下鉄の構内から商業施設を抜けて、地上へと出た。


 真夏の太陽が白く照り返し、アスファルトの上に陽炎かげろうが揺れている。


 日傘を開いて一歩踏み出すと、一陣の風が吹き抜け、その葉擦れの音が耳に優しく響いた。


 ふと、誰かに呼ばれた気がした。


 孤独。期待。喜び。

 寂しさと痛みが風となって、街路樹を揺らしている。


 そんな感覚を忘れるほど、都会に馴染みすぎていたことに気が付く。


 麻痺していた感情が少しずつ戻ってくるような気がした。


 ――そんな余裕のある朝も、悪くない。


 しかし、現実は確かにそこにある。葉月は辿り着いたビルを見上げた。


 息を吐くように、小さなため息がこぼれる。

 

 飾り気のない自動ドアから中に入ると、受付の女性が利用者票の記入を促した。

 屋外に比べればずっと涼しいが、ハローワークの求人相談室は密閉されたように息苦しい。

 そのまま「負のオーラ」の発信源に視線を向けた。


 ――そこは、求人情報検索用の端末が並ぶ一角だ。葉月は空いている席に腰を下ろす。


 タッチパネルを指でなぞり、求人票を一つずつ確認していく。それはここ最近のルーチンワークとなっていた作業だ。

 昨日と代わり映えのしない内容ばかりで、自然と肩が落ちる。

 その時、ある求人が目に飛び込んできた。備考欄に、緑色の文字がふわりと浮かんで見えた。


(え? なにこれ……? ホログラム?)


『森のジュエリー工房 フォレストジュエル琉央るお


 備考欄の一番下には、こう書かれていた。

 ──この文字が見える人は適性あり。

 福利厚生:天然かけ流し温泉、森の恵みの果実や野菜取り放題、社員寮完備。温泉は美肌の湯です。

 不思議な文章だった。見える人と見えない人がいるのだろうか。

 霊的なもの?

 いやいや、二十五年生きてきて霊なんて見たことがないし、霊感があるとも思えない。

 これは……目の錯覚か、あるいは何らかの仕掛けか?


 募集内容は『パソコンのできる人。(一般事務・WEB管理)』。


 なんとも曖昧な一文だが、葉月にとっては魅力的すぎる求人だった。


 彼女はもともと、大手企業のホームページ保守管理部署で働いていたWEBデザイナーだ。

 仕事は忙しく、ブラック企業の疑いもあったが、それでもスキルを活かしてバリバリ働いていた。


 ……しかし、とんでもない上司が異動してきたことにより、平和だった職場は激変した。

 そこに来たのは“ヤマダ”という男。目がギラギラしていて、声が大きい男だった。

 信じがたいことに、彼は上司権限を利用し、気に入った女性だけを優遇して、あからさまなえこひいきを始めた。

『やりたい放題』という言葉は、まさにこの上司のためにあるようなものだと思った。


 ホームページの維持・管理を担う部署は、もともと女性の多い職場だった。

 部署内は次第に彼を中心とするハーレムと化し、良いポジションを目指しての“ヤマダ”争奪戦が激化してしまった。


 しかし、恋愛に一定の夢を抱いていた葉月には、そんな環境はとうてい我慢できなかった。

 ──というか、ハーレムのボスを一発殴って退職した。


 社宅扱いだったマンションも追い出され、現在はホテル暮らしだ。貯金はそこそこあるが、悠々自適とまではいかない。


「これって、都会を離れてスローライフ満喫ってやつじゃない?」


 勤務地は“東京の郊外・山の方”という曖昧さ、募集要項も“パソコンができればOK”という雑さ。しかし、それがかえって自由で気楽に思えた。

 どうせ親はいないのと同じ。実家に戻っても、弟の嫁に気を遣わせてしまうだけだろう。


「ここで働く。一般事務でもWEB管理でも、なんでもやってやる。そして美肌の湯! よっし、自然の恵み満喫だ!」


 葉月は求人票を印刷し、そのまままっすぐカウンターへと向かった。



 

 ***



 

 都内から電車とバスを乗り継ぎ、最寄り駅に着いたのはお昼を少々過ぎた頃だった。


『腹が減っては戦はできぬ』

 駅前のファミレスに入り、昼食を取った。

 待ち時間に『森のジュエリー工房 フォレストジュエル琉央』のホームページを検索する。

 ホームページはあるにはあったが、いわゆる無料の個人向けサーバーを使っており、宣伝効果は一切ない状況だった。

 掲載されているのは、スナップ写真程度の粗い画像ばかりで、せっかくのアクセサリーの魅力がほとんど伝わってこない。

 そして、驚いたことに大手のオンラインショップに全く登録がないのだ。

 今どき、これで商売が成り立っているのが不思議で仕方ない。


 ジュエリーはボタニカルモチーフのおしゃれなものが多い。しかし、名前と写真がバラバラで、どれがどの名称なのか全くわからない。


(ジュエリー自体は悪くない。これなら、仕事はたくさんありそう)


 駅前でタクシーを捕まえ乗り込む。

 目的地を告げ、走り出すこと小一時間。だんだんと道が狭くなり、カーブが多くなってきた。

 東京の郊外とは思えない、深い緑に囲まれた山道だった。


「運転手さん。こんな奥にお店があるんですか?」

「たしか、この先のカーブを曲がったところでしたよ」


 車が弧を描くように、大きなカーブを右に曲がる。

 そして――予想外に清々しい景観で視界が開けた。


「え……」


 思わず、息を呑んだ。


 白樺が群生する先に、午後の光が差し込んでいた。その光の中に一軒の建物が、唯一無二の存在感で浮かび上がっている。


 コテージ風の建物は深みのある瑠璃色をしていた。左右非対称の屋根の下には、大きな窓とガラス張りの玄関ドア。

 木の枝をモチーフにしたボタニカルデザインの看板が風に揺れている。

 全体的にシンプルで飽きのこないデザイン。ところどころにあるアイアンのロゴも品が良い。

 まるで、森のエルフが経営する異世界の宝石店のようだ。


「このアイアンって、オーダーメイドだわ。違う。オーナーのお手製かも。デザインがジュエリーに通じるものがあるし」


 店へ続く小道には、不思議な色合いの玉石が敷き詰められ、歩きやすいように石のステップが続いていた。

 道の片隅には、ハーブや小花が可憐に咲いている。


「この店の周りって、なんていうか――空気が、違う」


 なぜかとても懐かしいと感じた。

 敷地内に一歩足を踏み入れると、花の香りが立ち昇る。ハーブを踏みしめたことによって発生した香りだった。


「タイムだわ」


 匍匐ほふく性のタイムはグランドカバーとして用いられるハーブで、清涼感のあるスパイシーな香りがする。また、リラックス効果がある。

 一人暮らしをしていた頃、仕事の疲れを癒すアイテムを調べて活用していた葉月は、自然と笑みがこぼれた。ここでの暮らしは楽しいものになりそうだ。


 キャリーバッグを引きながら入り口に向かうと、中から一人の男性が出てきた。

 その完璧なまでに整った容姿に、葉月は思わず目を瞠った。滅多にお目にかかれないレベルだった。


 身長は高く、足も長く、180センチ以上はあるだろう。

 前髪は長く、くせ毛の短髪。

 瞳は深い瑠璃色で、右目には泣きボクロがあった。

 高い鼻に形の良い唇。

 ファッションモデルでも、これほど均整の取れた人物は少ないだろう。

 その美丈夫が、葉月に向かって穏やかに微笑んだ。


「はじめまして。椎名葉月さん。待っていたよ。俺がオーナーの月森つきもり琉央るお。よろしく」


 低く男らしいハスキーボイスが葉月の耳に届く。近くで見ると、銀色のピアスを両耳につけていた。


「は、はじめまして」


 湖水のように透き通った優しい瞳で、彼はじっと葉月を見つめていた。

 その瞳は繊細で、とても雰囲気のある人物だった。


「……失礼」


 大きな手が若葉モチーフのイヤーカフを差し出す。

 緑色のカボションカットの宝石が、雫のような形をしていた。

 そのまま、葉月の耳に手を伸ばし、冷たい指先が触れる。イヤーカフがすべるように定位置に収まり、まるで生まれた時からそこに嵌められていたかのように軟骨に馴染んだ。


「翡翠とプラチナだ。生憎と現金がまったくなくてね。これは前金」

「そ、そんな高価なもの……」

「君には、ここにあるジュエリーを売って現金に変えてほしい。俺はデザインと制作しか能がなくてね。コンピュータがさっぱりわからない」


 これまで見たホームページの雑さ、求人票の募集要項から、葉月もなんとなくそのことは感じていた。


「そうじゃないか、と思っていました。……パソコン音痴?」


 彼は困ったように笑った。雰囲気は一変し、邪気のない笑顔だった。


「きついな。だが、その通り。給料は出来高制だ。2割は君、2割は俺――同等だ。その他は税金と店の運営費。これでどうかな?」

「そんなに簡単に信用しちゃっていいんですか?」


 彼は葉月の色素の薄い髪を耳の後ろにかけ、満足そうに頷いた。


「思った通り、良く似合う。ところで、――ここの温泉の効能は?」

「美肌!」

「あの文字が見えたのなら、採用だ。よろしく頼む」


 そう言って、夜の静けさを宿すような艶やかな笑みを浮かべた。

 

 続く

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