【9】無謀な戦争
牢獄の薄暗い独房でジョウユは座禅を組み、静かに目を閉じていた。無精髭の生えた顔は痩せた彼の顔をより精悍に険しくしていた。
その体勢を取れば心が落ち着き、思考がクリアになる精神統一の方法としてかつて優しい師であった頃のラハサァが教えたものであった。
ジョウユはラハサァの暴走を止められなかった自分を責めていた。
肥大した欲望に支配され、もはや人間性を失った師の姿は彼がかつて夢見た理想とはかけ離れた存在に堕ちていた。
ラハサァは自分に反抗する者は容赦なく粛清している。自分の番はそう遠くないとある諦めの境地でその時を静かに待っていた。しかし…
その日の夜、牢の扉が静かに開く音がした。
入ってきたのはラハサァの妻リリアだった。彼女は憔悴しきった顔で震える手で牢の鍵を差し出した。
「ジョウユ…」
「リリア様。どうなされました?」
リリアの声はか細く今にも消え入りそうだった。
「どうか、ここから逃げてください」
彼女が差し出した鍵を見て、ジョウユは驚いて顔を上げた。
「イラームがラハサァに殺されました。ここにいるのは危険です」
「イラームが!?いや…やはり…」
ジョウユはたまにラハサァからイラームの陰口を聞かされていたため自分の道具として彼を利用している反面、疎ましく思っている事は察しがついていた。
それ故に彼の代わりが出来た今となっては、いつ粛清してもおかしくないと考えていたのだ。
「もう、耐えられないのです。夫は、父を殺し…イラームを…そして、今度は…」
リリアは嗚咽を漏らしながら、絶望的な事実を口にした。
「夫は…東の大国と戦争するつもりです。私たちの王国はまだあんな大国と戦えるほどの力はないのに…」
ジョウユはその言葉に絶句した。彼はラハサァの野心は理解していたが、まさかここまで暴走しているとは想像だにしなかった。
昔の彼はそこまで無謀ではなかったはずだが…まるで悪夢を見ているかのような感覚に襲われた。
「戦争?無茶だ…あまりにも無謀すぎる…」
ジョウユは呆れ果て、頭をかきむしった。
嘗て師と仰ぎ尊敬の念を抱いていた男がこうにも耄碌してしまったのかと。
「先生はついに正気を失ったのか…?
もしや、あの方が作りたかったのは理想国家ではなかった…
ただの…彼自身の欲望を満たすための、玩具に過ぎなかったのか…」
ジョウユはリリアの手から鍵を受け取り牢から出るとゆっくりと立ち上がった。
彼の瞳にはこれまでの絶望とは異なる、新たな決意の光が宿っていた。
「リリア様、逃げてください。私も…」
「いいえ。私は逃げません」
「しかし…先生はもう…」
リリアは首を横に振った。
「私は、この国に留まります。そして、この国を…夫を救いたい。私には…まだこの国の行く末を見守る責任があるのです」
ジョウユはリリアの決意に心を打たれながらも、その言葉の裏に潜む悲しい真実に気づいた。
彼女はおそらくラハサァを救うことなどできない。彼女はただ、自分が愛した男がかつての姿に戻ってくれることをかすかな希望を抱いて待っているだけなのだ。
それは決して可能性の低い…いや、奇跡でもなければ起こり得ない賭けであった。
渡された鍵で牢から出ると、ジョウユはリリアに深々と頭を下げた。
「リリア様、貴女の勇気に感謝します。私はこの国を…そして、先生の教えを守るためにすべきことがあります」
ジョウユはラハサァが破滅に向かって突き進んでいく予感を感じていた。
今こそ自分が行動を起こさなければならないと悟った。
彼はかつて師と仰いだ男を止めるため、新たな戦いを始めることを決意したのだった。
「まだ世間を知らぬ生意気な童だった時、先生と共にあなたから勉学を教わった頃こそ…一番幸せな時間でした」
「ジョウユ…」
「もし何か私にできる事があればお申し付けください。微力なれどお力になれましたら幸いです…」
リリアはジョウユに顔を向け、切実な眼差しで告げた。
「ならばジョウユ。今後…もしものことがあれば、どうか子供たちをお願いします。
この子たちを…娘と息子たちだけは…夫の野望から守ってほしいのです」
「わかりました。リリア様や子供達もお元気で…」
ジョウユは静かに頷いた。リリアの目に宿る悲しみと決意を見て、彼はラハサァの王国に未来がないことを確信した。
かつて理想を語り合った師は、もはや己の欲望に溺れた怪物に成り下がっていた。
牢から出るとジョウユはすぐに闇夜に紛れて姿を消した。
彼が目指すのは、師が成し遂げられなかった真の理想国家の建設だった。
国外に脱出した後にかつての教え子たちと密かに連絡を取り、仲間達がラハサァの王国から脱出する準備を手伝った。
彼の背後には度重なる粛清によって砂上の楼閣と化したラハサァの王国を裏切り、新たな理想を求める仲間たちが続いていた。
堕落した教祖から離れ、堕落する前の師が説いた真の「精神的人類革命」を成し遂げるために新たな旅に出たのだった。
「なに?ジョウユが逃げただと!?」
ジョウユの逃亡を知らされたラハサァは、激しい怒りと共に深い猜疑心に苛まれた。あの男は一体どこへ行った? 何を企んでいる? 彼の優秀な頭脳が、敵に利用されることを想像するだけで全身の血が逆流するようだった。
必要とあらば彼をまた牢から出し意見を聞こうと思っていた。だが、もう知恵袋たるジョウユに頼る事は出来ないのだ。
しかし、同時に彼は安堵も感じていた。これで自分の権力を脅かす最も危険な存在がついに消え去ったのだと。
だが、ジョウユが…彼の立てる戦略こそがこの王国の最後の生命線だったという事に、この裸の王はついぞ気付かなかったのである。
「もういい。あのような裏切り者など、最初からいなかったのだ」
ラハサァはそう言い放ち新たな参謀を呼び出した。彼はかつてジョウユの部下だった男だが、見るからに彼から劣る小心者だった。
その男はラハサァの機嫌を損ねないよう常に顔色をうかがい、慎重に言葉を選んだ。
「東の大国との戦争について、どう思う?」
ラハサァが問うと、参謀は震えながら答えた。
「は、はい。陛下。東の大国は、内政に問題を抱えております。飢饉と疫病が蔓延し、民衆の不満が高まっていると聞いております。また、軍の士気も低く、我々の強大な軍勢と兵器の前では、まるで赤子同然かと」
ラハサァにとって都合がいい虚偽の報告だったが、その言葉を聞いた彼は満足げに頷いた。
「ほう、そうかそうか…やはりな。当然だろう…救済者たる我らの力は神にも等しいのだからな」
参謀の言葉はラハサァが聞きたいことそのものだった。彼はその情報がどれほど信頼できるかなど考えるまでもなく、ただ己の勝利を確信した。
彼はもはや現実の脅威ではなく、自分の欲望と権力欲を満たす甘い言葉しか耳に入れなくなっていた。
ジョウユは彼に時折言っていた言葉がある。指導者として決断を下す際にはたとえ都合の悪い意見でも真実から目を背けず、それを受け入れ冷静に対処すべきという事を…
だが、そんな忠臣の諫言などラハサァはとっくの昔に忘却の彼方であった。
嘗てのラハサァには出来ていたことが、権力と快楽に溺れた今となっては出来なくなってしまっていたのだ。
「よろしい。直ちに全軍に出撃命令を下す。神聖なる我らの王国は、東の愚者どもに真の力を知らしめてやるのだ!」
勝利を確信したラハサァは高らかに宣言し、臣下たちは狂信的な歓声で応えた。
しかし、その勝利は彼が思い描いていたものとは全く違う形で訪れることになる。
ラハサァの王国軍は、その圧倒的な数を頼りに東の大国へと進軍した。
彼らの先遣隊は東の大国の貧弱な国境守備隊をやすやすと蹴散らし、華々しい初戦の勝利を報告した。
「見たか! 我らの神聖なる軍隊の力だ!」
ラハサァは報告を聞き、玉座で高笑いした。
彼の前に並んだ参謀たちは一様に媚びへつらい、その勝利を称えた。
だが、一部の人間はこの戦の異様な雰囲気に気付いていた。
憎むべき敵の戦死者は思ったより少なく、敵の引き際がまるで始めからそうしたように鮮やかだったことに…
「このまま一気に攻め込めば東の蛮族どもなど、一瞬にして平伏すでしょう!」
しかし、その言葉が不可能であることは次の報告で明らかになった。
ラハサァの王国軍の主力部隊が東の大国の内陸部に足を踏み入れた途端、状況は一変した。
東の大国は数の違いからあえて初戦での敗北を受け入れ、即座に撤退を選択。
それを誘い水とし、増援を加えた第二陣はラハサァの軍を待ち伏せしていたのだ。
かの軍勢は、ラハサァが想像していたような飢えた烏合の衆ではなかった。
彼らは全員が分厚い鉄の鎧に身を包み、鋭い刃を付けた槍を携えていた。
その姿は、まるで一つの巨大な鉄の塊のようだった。
そして、その背後には地平線を覆い尽くすほどの騎馬隊が控えていた。
彼らの騎乗する馬は東の平原で鍛え上げられた精強な品種でその蹄が大地を揺らし、轟音を立てた。
ラハサァの軍は初戦の偽りの勝利に油断していた。
彼らは軽装のまま進軍し、東の軍勢の重装歩兵の突進にまともに対応することができなかった。
「な、なんだ、この数は…!」
王国軍の指揮官たちは、その圧倒的な敵の数と装備の前に恐怖で言葉を失った。
東の軍は正面から歩兵を展開し、王国軍に猛攻を仕掛けた。
鉄の鎧をまとった彼らの槍衾は王国軍の盾をやすやすと貫き、兵士たちを次々と薙ぎ倒していった。
そして、その歩兵の攻撃が一段落すると、背後に控えていた騎馬隊が一斉に突撃を開始した。
「ひ、ひぃ…!」
地鳴りのような轟音とともに、鉄の鎧をまとった騎馬隊が王国軍の陣営に突っ込んだ。
彼らの放つ弓矢は雨のように降り注ぎ、逃げ惑う王国軍の兵士たちを次々と射抜いた。
そして、馬の蹄が倒れた兵士たちの体を容赦なく踏みにじり、王国軍の陣営は瞬く間に地獄と化した。
東の軍勢は規律正しく、冷徹だった。彼らにはラハサァの軍隊のような狂信的な熱狂はなかったが、その代わりに邪悪な侵略者から故郷を守るという強い意志があった。
前線の軍が地獄の様な敗北を味わっている中…豪華絢爛な宮殿の一室で、ラハサァは愛人たちと宴を楽しんでいた。
その時、血と泥にまみれた伝令が慌てて飛び込んできた。
「も、申し訳ございません! 陛下…敗北いたしました!」
その言葉にラハサァは酒杯を床に落とした。美しい装飾が施された酒杯は砕け散り、琥珀色の液体が絨毯に染みを作った。
「敗北…だと? 何を言っている。あの東の蛮族どもに、この私が…負けた…だと…?」
ラハサァは伝令の胸倉を掴み、叫んだ。伝令は怯えながらか細い声で答えた。
「…先遣隊は勝利しましたが…向こうには、鉄の鎧と槍で武装した重装歩兵と、夥しい数の騎馬隊が…」
「騎馬隊…だと…?」
ラハサァは、かつてジョウユが東の大国の情報を集め、最新鋭の兵器や軍の編成について報告していたことを思い出した。
しかし、彼はその報告を「嘘」だと決めつけ、聞く耳を持たなかった。
「…まさか…まさか…」
彼はようやく、ジョウユが何を言いたかったのかを理解した。
そして、その優秀な頭脳を持つ男を自らの猜疑心から投獄してしまったことを思い出した。
「私は…私は…」
ラハサァはまるで生気が抜けたかのように、その場にへたり込んだ。
彼の肥え太った体は、震えが止まらなかった。
彼は、自分が絶対的な権力を持つ神のような存在だと信じていた。
しかし、その神がたった一つの敗北によってすべてを失うかもしれないという事実に直面した。
「ああ…そんな…そんなはずはない…」
彼は、敗北を認めることができなかった。自分の権力とこれまでの栄光が、音を立てて崩れ去っていくのを感じながら、ラハサァはただ呆然と座り込んでいた。
その後も、王国軍はどの戦場でも敗北を喫した。
東の大国の軍勢は規律正しく冷徹に、そして着実に首都へと迫ってきた。
各地で反乱が勃発し、王国は内と外からの攻撃に晒され、崩壊寸前だった。
そしてついに、東の大国の軍勢が首都の城門を打ち破り、宮殿へと雪崩れ込んできた。宮殿の衛兵はわずかしか残っておらず、彼らの抵抗は無意味に終わった。東の兵士たちはラハサァの豪華絢爛な宮殿を蹂躙し、略奪の限りを尽くした。
ラハサァは、その光景を自室の窓から震えながら見ていた。
彼はもはや戦う気力も、民衆を鼓舞する力も残っていなかった。
嘗て紙を自称した男の頭の中には、ただ一つの考えしかなかった。
(逃げるのだ…私さえ生きていれば王国は再建できる…)
彼は、事前に用意しておいた荷物を手に取った。
それはリリアや子供たち、愛人たちを連れていくためのものではなかった。
王国の財宝、宝石、金銀財宝…それらを詰めた重い袋だった。
彼は、妻子やダーキニーたちの安否を確かめることもせず、地下にある隠し通路へと向かった。
そこは、彼の権力が揺るぎないものだった頃に万が一に備えて密かに作らせていた逃走経路だった。
「これで…これで私は助かるのだ…!」
彼は、隠し通路の奥にある小さな隠し部屋に身を潜めた。そこは、外の喧騒がほとんど聞こえない、静寂に包まれた場所だった。
彼はそこで数日間を過ごした。食料も水も尽きかけ、彼の空腹と喉の渇きは限界に達していた。それでも彼は外に出る勇気がなかった。
そして、すぐに隠し部屋の扉が外から乱暴に叩かれた。
「おい! 中にいるのはわかっているぞ! 出てこい!」
兵士の荒々しい声が、静かな部屋に響き渡った。ラハサァは、恐怖で体が硬直し、声も出なかった。なぜ、居場所がばれたのか? 彼は頭の中で必死に考えた。
…そうだ、あの参謀だ。自分に都合の良い報告しかせず、東の軍の情報を偽って伝えたあの男…彼は、ラハサァが逃げた後に東の軍に寝返り、自分の居場所を教えたのだ。
扉が勢いよく開き、数人の兵士が中に踏み込んできた。彼らはラハサァが肥満体から痩せ細り、汚れた衣服を身につけ、財宝の袋を抱きかかえて震えている情けない姿を見て嘲笑した。
「おいおい、これが神だなんて笑わせるぜ!」
「救済者ならまず自分を救ってみろよ!」
兵士の一人がラハサァの腕を掴み、外へ引きずり出した。
「た、助けてくれ! 頼む…! 私は神だ! 私は…!」
「ちっ、こんな豚が神かよ。さっさと歩け…おい!」
ラハサァはみっともなく命乞いをしながら、地面を這いずった。
その時だ、彼の肛門から熱く、ねっとりとしたものが流れ出す感触があった。
「…うわっ!」
兵士の一人が顔を顰め、鼻を覆った。
「くっせぇな! こいつ、小便だけじゃなく糞まで垂らしてるぜ!」
ラハサァは、恐怖のあまり脱糞していたのだ。
王国の絶対的な支配者として君臨していた男は今、すべての威厳を失いただの醜い乞食同然の姿を晒していた。
彼は兵士たちに嘲笑されながら、屈辱にまみれた顔で引きずられていった。
新たな新天地で得たはず彼の人生はまるで巨大な砂の城のようにあっけなく、そして無様にも崩れ去ったのだった。
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