第2話 名前のない記録

「名を忘れる夢をみた気がした」と言ったとき、誰かに「それはよくあることだ」と返された。その”誰か”がだれだったのかを、今は思い出せない。


いや、正確には、その人の顔も声も思い出せる。

だが、名前が浮かばない。


だから私にとってその人”いない”のと同じことなのだ。

名前を失った人間は、記憶の中では座標を持たない。何の引き出しにも収まらず、ただ漠然と居るだけの”雰囲気”になる。

その人が本当にいたのか、それすら怪しい。




ここ数日、そんな人ばかりになってきた。

私の記憶の中の登場人物たちは、輪郭だけが残り、名前という骨が抜けていく。

声はある。仕草もある。けれど名がない。


それはまるで、夢を逆から見ているような感覚だ。



昼、夢日記を開く。

いつの間にか、文字が書かれていた。

私は、こんな文字を記した覚えはない。

筆跡も違う。インクの色さえ、私の使っているペンのものとは異なる。


だが、見覚えがある。

夢の中で、女が書いていた。


名のない女だった。

彼女が、「あなたの夢、よく似てるわ」と言ったことを覚えている。その言葉に、どこかひどく懐かしいものを感じた気がする。その理由を尋ねようとした瞬間、目が覚めた。


その夢を見たのは--いつだったか。

昨日かもしれないし、今この瞬間だったのかもしれない。



書かれていた文字は、こうだった。


〔おかえりなさい。忘れてくれて、ありがとう〕


ぞくり、と背中に冷たいものが這い上がった。

この手の感覚は、もはや恐怖とは違う。

それはもっと、湿った後悔のような、不意に口の中に広がる鉄の味のような--

あるいは、生理的な拒絶反応とも近い。


だが奇跡なことに、この文字は私自身が書いたような気もした。

それは錯覚ではない。

たとえば、夢の中でかいた記憶が、現実に残っているとしたら?

あるいは、私という存在自体が、夢の中の”誰か”に記録されていたとしたら?


「……そうだ」


ふと思いだす。

私は、もともとここにいなかった。




午後、駅のホームに立つ。

電車を待っていたはずなのに、もう乗ったあとだった。

降りようとして、すでにドアが閉まったことに気づく。

目の前の窓に映る私の顔が、知らない女のものに見えた。

だが、その顔は、鏡の中で見たことがある。


名を知らない顔。

けれど私の目がそれを”私”として認識してしまった時点で、それは私の一部になる。

脳は、整合性を保つために、記憶の上書きを平気で行う。


何かを見たくないと思った瞬間、それを”なかったこと”にする。

私はそれを、ずっと前から繰り返している。



帰宅してすぐに夢日記を開くと、また文字が増えていた。


〔まだ気づかないの?あなたが”夢に喰われる”役割だったことに。〕


よんだ瞬間、視界が歪んだ。

世界が少し傾き、耳鳴りのような音が、空間の奥から聞こえてきた。

文字がゆっくりと裏返り、意味が剥がれていく。


私は目を閉じた。

閉じても、その文字だけが焼き付いたように残っている。

まぶたの裏に、鏡文字のように滲む、誰かの声。



その夜、夢を見た。

夢の中で私は、夢日記を開いていた。

日記にはこう書かれていた。


〔私は”私”ではありませんでした。書いていたのは彼女で、読んでいたのも彼女で、私はずっと、”夢の中の記録”にすぎなかったのです。〕


私は驚かなかった。

むしろ、どこかで納得していた。


目が覚めたとき、私は自分が誰だったかを思い出そうとした。

だが、もう名前がなかった。


それどころか--”私”という一人称さえ、怪しくなっていた。



机の上の夢日記は、最初のページから最後のページまで、すべて、同じ筆跡で埋め尽くされていた。

どれも私の字ではない。

けれど、それを読んでいる私の中には、誰の記憶も存在しなかった。


つまり、私は”喰われた側”ではなく、はじめから”喰うために生まれた夢”だったのかもしれない。


誰かがページを閉じた音がした。

私はその音を聞いた気がする。


だが、それが”耳で聞いた”のか、”夢の中の出来事”だったのか、今となってはもう、どちらでもよかった。

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