夢に喰われる
福宮アヤメ
第1話 夢の中の名
夢を見た、という記憶がある。
けれど、それは本当に”夢だったのか。
目を覚ましたとき、まず視線が探したのは天井の木目でも、枕元の時計でもなく--自分の名前だった。
名前が、うまく出てこなかった。
喉まで出かかってるのに、舌がそれを拒んでいた。
口にすれば、取り返しがつかなくなるような、そんな直感だけが脳髄を圧迫していた。
それは不安というよりも、むしろ安堵に近かった。忘れている、という事実に、どこかで救われている自分がいた。
なぜなら私は、もう何度も同じ夢を”思い出さなかった”ことがある。
夢日記を開く。
ページは昨日のところで止まっている。いや、正確には、昨日”も”空白だ。
日付だけが記されていて、その下には黒々とした空白がある。しろではない。墨を流したような空白。それはまるで、記録されるべきだった言葉たちが、紙の中で溶けてしまったような痕。
書いたはずの文字が、書いたという”意志”だけを残して消えている。ペンを持った感触はある。インクの擦れる音さえ、耳の奥で再生できる。なのに、それがどこにも見つからない。
記憶ではなく、痕跡が消えている。
記憶の内側に、誰かが爪を立てたような、そんな感覚。
朝食は味がしなかった。
テレビの音が濁っていた。
歯磨き粉の冷たさが、皮膚の奥まで染みていくようだった。
私という存在が少しずつ”内側から剥がされている”ような感覚。そしてそれが、驚くほど自然だった。むしろ、ようやく正しい形に戻りつつあるような錯覚さえあった。
夢を見た、という記憶がある。
それは、何かを忘れるために見る夢だった気がする。
けれど、私は何を忘れたのかを、忘れてしまった。
--それはとても、よくできた夢だったのだ。
通勤電車の窓に、自分の顔が映る。
ぼやけていて、輪郭がうまく結べない。
他人の顔を借りているような感覚が、鼻の奥に鈍く残る。
向かい席に座っている若い女が、うつむいてなにかを呟いている。
よく見ると、口の動きが「逆」だった。
まるで映像を巻き戻すように、口が開きながら言葉を飲み込んでいる。
その瞬間、風景が少しだけ歪んだ。
歪んだ、ような気がした。
誰も動じていない。私の頭がおかしいだけかもしれない。
だが私は確信している。
”喰われた”のだ。
夢の中にいたものが、夢の外に滲み出してきている。
記憶が欠けたことに気づいた時点で、それは既に戻らない。
消えたのではなく、別の何かに置き換えられた。
それが、何かを語ろうとしている。
夢の中で、私は”誰か”と出会った気がする。
名前のない女だった。
彼女はずっと、鏡のような窓を見つめていた。
「あなたの名前は……何?」
そう尋ねたはずなのに、答えが聞こえなかった。
そして目が覚めた。
私の名前が。思い出せなくなっていた。
もう一度、夢日記を開く。
そこに、新しい行があった。
逆さ文字で書かれていた。
自分の文字ではなかった。
けれど、確かに自分の記憶の中にだけ存在する、あの女の筆跡だった。
こう書かれていた。
〔あなたは、まだ夢の外にいると思っているの?〕
私はその文字を見た瞬間、涙が出た。
なぜ泣いているのか、自分でも分からなかった。
でも、その言葉が正しいことだけが、確かに分かっていた。
それが、最後の”現実”だったかもしれない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます