第六章 特等車両に潜む嘘

 “特等車両”は、夜行桜の中でも最も豪華な個室を備えた、最後尾の車両だった。

 乗客リストには、たった一人の名前しか登録されていない。


 「貴船 将人きぶね まさと


 財界人、片桐の古い知人。今回の記念運行の“裏スポンサー”とされている人物だ。


 薫と白菊が車両に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。


 冷たい、息苦しいような静寂。


 「ここに──久我詩織が“手を出せなかった相手”がいるのね」


 薫が呟く。


 ◆


 案内されたスイートルーム。

 そこにいた男は、まるで「自分がすべてを見下ろしている」かのような笑みを浮かべていた。


 「おやおや、今さら詮索とは。

 “あの子”──久我の娘のことなら、もう死んでいるだろう?」


 白菊が、喉の奥で何かを吐き出しかけるような感覚を覚える。


 薫の拳が震えていた。


 「あなた……“あの火災”の時、久我楼にいたんじゃないの?」


 男は、涼しい顔でウイスキーを揺らす。


 「ふん、いたとも。

 だが私は止めた。片桐が“金を回収するために火を入れた”のを、ね」


 「──“止めた”だけで済ませる気?」


 「なに、彼は勝手に火をつけ、久我楼は燃えた。

 私は、その後始末をしただけだ。

 娘?……ああ、名前を消せば済む話だろう?」


 白菊の背筋が凍る。


 ──彼は、殺したのではない。存在を消したのだ。


 名前を。記録を。証人を。


 だから詩織は、手を出せなかった。下手に手を出せば本当に消されてしまうからだ。


 ◆


 薫が、静かに懐から一枚の紙を出す。


 それは、詩織の手記の最後のページだった。


 > 「本当の犯人を、私は殺せない。

  でも、彼の嘘を暴けるのは、白菊さんだけだと信じてる」


 > 「だから、白菊先生。

  私の声を、名を、記して。どうか、私を“いたこと”にして」


 白菊が震える手で、その紙を握る。


 「君は……記録を拒まれ、存在を消された。でも、僕が……君を、“いたこと”にする」


 男が冷笑する。


 「くだらん感傷だ。“お前たち”に何ができる?」


 そのとき――


 鈴の音が、風もない車内で、鳴った。


 男の背後に、ふっと白い袖が現れる。


 久我詩織が、そこにいた。


 何も言わず、ただ、見下ろしていた。


 白菊は、筆を走らせた。


 名前を記す。


 嘘を暴く。


 すべてを記録する。


 「君はここにいた。久我詩織。

  僕は、君を忘れない。

  君は、消されなかった」


 ──次の瞬間、鈴が砕けた。


 男の顔が、真っ青に染まる。


 「やめろ……!!」


 だがもう遅い。


 “記録された者”は、存在する。


 “記されない嘘”は、今、終わりを迎えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る