第32話 獣の牙と、聖女の素顔

グルルルルルル……。

洞窟の奥から響く、地を這うような唸り声。

暗闇に、複数の赤い光が、まるで鬼火のように浮かび上がった。

一つ、二つ……いや、五対、六対はいる。

その光が、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。


「……嘘だろ」


焚き火の光に照らし出されたその姿は、狼に似ていたが、その体躯は遥かに大きい。全身が、闇に溶け込むような、漆黒の体毛で覆われている。

影喰らいシャドウハウンド。夜の闇を縄張りとし、光を嫌う習性を持つ、A級の魔獣だ。

一匹でも厄介な相手が、群れで現れた。


「まずいですね……」

隣で、イリスが絶望的な声を漏らす。

彼女はマナが枯渇し、俺は負傷と疲労で満身創痍。

最悪の状況で、最悪の敵と遭遇してしまった。


「アレン……!」

イリスが、俺の服の袖を掴む。その手は、恐怖に微かに震えていた。


「……下がってろ」

俺は、彼女を背後に庇い、剣を構えた。

「あんたに死なれたら、世界の真実とやらが聞けなくなる。絶対に、死なせん」


「!」

イリスが、息を呑むのがわかった。


シャドウハウンドの群れが、じりじりと、俺たちを取り囲むように距離を詰めてくる。奴らも、中央にある焚き火を警戒しているようだ。


「聖女様!」

俺は、背後のイリスに叫んだ。

「何か、光を起こす魔道具か、初歩の初歩の明かりの魔法でも使えないか! こいつらは、強い光が弱点なはずだ!」


「ま、マナがなければ、魔法は……! ですが、これなら……!」

イリスは、懐から、自らの聖印である、太陽をかたどった小さな首飾りを取り出した。

彼女が、それに祈りを捧げると、聖印は、ぼうっと、頼りないが、確かに神聖な光を放ち始めた。


「グルルゥッ!」

その光に、ハウンドたちが怯んだように、一歩後退る。

いける!


「もっと光を!」


「はいっ……!」

イリスは、必死に祈りを捧げ続ける。

だが、その光に慣れたのか、群れの中でも一際大きな、リーダー格の個体が、痺れを切らしたように咆哮した。


「グルアアアアアッ!」


リーダーの咆哮を合図に、一匹のハウンドが、炎を飛び越えて、俺に襲いかかってきた!

俺は、その爪を剣で弾き返す。

だが、すぐに、第二、第三の波が、左右から襲いかかってきた。


「くそっ、きりがない!」


その時だった。

俺が、一体のハウンドを斬り捨てた瞬間、リーダー格の個体が、イリスに向かって突進した!

狙いは、光の源である、彼女自身!


「しまっ……!」

俺が駆け寄るより、奴の牙がイリスに届く方が、速い。


「きゃっ……!」

イリスが、悲鳴を上げて、目を固く瞑る。


―――守る。


俺の魂が、叫んだ。

約束したんだ。生きて帰ると。

この女も、俺の『生きて帰る』の一部だ!


俺の肩の傷口から、黎明色のオーラが、閃光のようにほとばしった。

それは、ほんの一瞬。

だが、その光を浴びた俺の剣は、明らかに、その切れ味を変えていた。


「―――消えろ」


俺は、リーダー格のハウンドとイリスの間に滑り込み、その刃を、首筋に叩き込んだ。

ザシュッ、と。

驚くほどの手応えのなさ。まるで、熟れた果実でも切るかのように、A級魔獣の屈強な首が、宙を舞った。


「……グル……?」

リーダーを失ったハウンドたちは、明らかに混乱していた。

そして、黎明色のオーラを放つ俺の剣を見て、本能的な恐怖を感じたのか、蜘蛛の子を散らすように、洞窟の闇の奥へと逃げ去っていった。


「はぁ……はぁ……」

嵐が、過ぎ去った。

俺は、その場に、へたり込んだ。

肩の傷が、再び開いている。血が、止まらない。


「アレン……!」

イリスが、駆け寄ってきた。

彼女は、俺の肩に、再び、治癒の光を当てる。

その瞳は、潤んでいた。


「……なぜ、わたくしを庇ったのですか。あなた一人なら、もっと楽に逃げられたはずです」


「……あんたが死んだら、寝覚めが悪い」

俺は、照れ隠しに、ぶっきらぼうに答えた。

「それに……約束、だからな」


「約束……?」


「ああ。帰るって、約束したんだ」

リリムと交わした、契約。

その約束が、今、俺の心を支えている。


イリスは、何も言わなかった。

ただ、俺の傷を、優しく、優しく、癒してくれる。

その温かい光に包まれながら、俺の意識は、再び、深い眠りへと落ちていった。



俺が、次に目を覚ました時、洞窟の外は、朝の光に満ちていた。

イリスは、俺の隣で、火の番をしながら、静かに眠っている。

その寝顔は、ひどく、あどけなかった。


これで、少しは、休めるか。

そう思った、矢先だった。


洞窟の外から、人の声と、複数の足音が聞こえてきた。

追手か!?

俺は、慌てて剣を掴み、イリスを叩き起こした。


俺たちは、息を殺し、洞窟の入口から、外の様子を窺う。

そこにいたのは、『六枚の翼』ではなかった。

獣の皮を纏い、屈強な斧や弓を携えた、数人の男たち。

猟師か、あるいは、この森の住人か。


男たちの一人が、俺たちが隠れる洞窟に気づいた。

まずい、見つかる。

俺とイリスが、身構えた、その時。


男は、にやり、と笑うと、大声で仲間を呼んだ。


「おい、見ろ! こんなところに、上玉の女と、手負いの男がいるぞ!」

その目は、明らかに、獲物を見る目だった。


聖王国の追っ手でも、魔王軍の追っものでもない。

ただの、運の悪い、追い剥ぎだった。

俺は、舌打ちをした。

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