第31話 名もなき森
視界が、白から黒へ、そして再び色を取り戻す。
浮遊感と、全身を捻り潰されるような圧迫感。それが、聖女の禁断の秘術、ランダムテレポートの代償だった。
「……ぐっ……!」
俺は、柔らかな土の上に、受け身も取れずに叩きつけられた。
肩の傷が、激痛を訴える。
隣には、同じように倒れ込んだイリスの姿があった。彼女は、聖法気(マナ)を完全に使い果たしたのか、ぐったりとして、意識が朦朧としているようだった。
「……おい、聖女、しっかりしろ」
俺は、なんとか身体を起こし、彼女の肩を揺する。
「……ここは……?」
イリスは、か細い声で呟き、ゆっくりと周囲を見回した。
そこは、見たこともない、鬱蒼とした森の中だった。月明かりが、巨大な木々の隙間から、まだらに差し込んでいる。霧の谷とは、明らかに違う場所だ。
「……転移は、成功したようですね」
イリスは、安堵のため息をつくと、そのまま再び気を失いそうになる。
「おい!」
俺は、慌てて彼女の身体を支えた。
聖女の身体は、驚くほどに軽く、そして、冷たくなっていた。
このままでは、まずい。夜の森の冷気と、マナの枯渇。この二つが、彼女の命を確実に削っていく。
俺は、イリスの身体を背負い、安全な場所を探して、覚束ない足取りで歩き始めた。
幸いにも、三十分ほど歩いたところで、岩壁に穿たれた、小さな洞窟を見つけることができた。
俺は、洞窟の中にイリスをそっと横たえさせると、枯れ枝を集めて、火を起こした。
パチパチと、炎がはぜる音だけが、静かな洞窟に響く。
その温かい光が、イリスの青白い顔を照らし出した。
眠っている彼女は、聖女という仮面を脱ぎ捨て、ただの年頃の少女にしか見えない。
その無防備な姿に、俺は、どうしようもない気まずさを感じていた。
◇
〈魔王城〉
「まだ見つからんのか! アレンは! 妾の執事は、どこにおる!」
リリムの怒声が、作戦司令室に響き渡っていた。
彼女の前には、青ざめた顔のルナリアと、微動だにしないゼノンが立っている。
「申し訳ありません、リリム様……。アレン様の気配は、完全にこの一帯から……」
ルナリアが、おそるおそる報告する。
「言い訳は聞きたないわ! 妾の眷属を総動員してでも、探し出せ! 地の果てまで、ひっくり返せ!」
「リリム様」
それまで沈黙を守っていたゼノンが、静かに口を開いた。
「冷静になってください。アレン殿は、聖女と共に、転移魔法で離脱した可能性が高い。我らがこの森を探し回っても、おそらくは……」
「黙れ、ゼノン!」
リリムは、ゼノンの言葉を遮った。
「お主は、アレンが死んでもよいと申すか!」
「……滅相もございません」
ゼノンは、静かに頭を垂れた。
「ですが、今は、聖王国軍の残党を完全に叩き、城の守りを固めるのが先決かと。アレン殿も、きっと、それを望んでいるはずです」
ゼノンの言葉は、正論だった。
だが、リリムの心は、それを素直に受け入れられない。
アレンが生きて帰ってくると『契約』した。だが、もし、あの聖女に騙されていたら? もし、もう二度と……。
「……うぅ……」
リリムの瞳から、ぽろり、と大粒の涙が零れ落ちた。
「アレンの、馬鹿……! 妾を、一人にするでない……!」
魔王の、初めて見せる涙。
ルナリアとゼノンは、かける言葉もなく、ただ、悲しみにくれる主君の姿を、静かに見守るしかなかった。
その様子を、部屋の入口の影から、ライアスが、複雑な表情で、見つめていた。
彼の手は、強く、強く、握り締められていた。
◇
(アレン視点)
パチ、と火の粉が弾ける音で、俺は浅い眠りから目を覚ました。
見ると、イリスが、いつの間にか目を覚まし、燃え盛る焚き火を、じっと見つめていた。
「……身体は、もういいのか」
俺が声をかけると、彼女はびくりと肩を震わせ、こちらを向いた。
「……ええ。あなたのおかげで、少しだけ、マナが回復しました」
その声は、まだ弱々しい。
再び、沈黙が落ちる。
何を話せばいいのか、わからない。
俺は、気まずさを紛らわすために、焚き火に新しい枝をくべた。
「……ごめんなさい」
不意に、イリスが、そう呟いた。
「何がだ」
「あなたを、巻き込んでしまった。わたくし一人の問題だったのに……」
「今更だろ」
俺は、ぶっきらぼうに答えた。
「それに、あんただけの問題じゃない。シオンは、俺の親友だ。あいつを、あんな歪んだ正義から、救い出してやりたい。……俺は、そう思ってる」
俺の言葉に、イリスは、驚いたように目を見開いた。
そして、ふわり、と。
初めて、彼女の心からの笑みを見た気がした。
「……あなたは、優しいのですね、アレン」
その笑みは、聖女のそれではなく、ただの、一人の少女の笑顔だった。
「なっ……! ば、馬鹿なこと言うな!」
俺は、慌てて顔を背ける。
なんだ、今の動悸は。疲れているのか?
俺たちの間に、先ほどまでとは違う、どこか甘酸っぱいような、むず痒い空気が流れる。
だが、その甘い雰囲気を、打ち破ったのは―――
グルルルルルル……。
洞窟の奥の暗闇から、響いてきた、低い唸り声。
そして、暗闇の中に、爛々と輝く、複数の赤い光が、ゆっくりとこちらに近づいてきた。
「……嘘だろ」
俺とイリスは、顔を見合わせた。
この洞窟は、空き家ではなかったらしい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます