第31話 名もなき森

視界が、白から黒へ、そして再び色を取り戻す。

浮遊感と、全身を捻り潰されるような圧迫感。それが、聖女の禁断の秘術、ランダムテレポートの代償だった。


「……ぐっ……!」


俺は、柔らかな土の上に、受け身も取れずに叩きつけられた。

肩の傷が、激痛を訴える。

隣には、同じように倒れ込んだイリスの姿があった。彼女は、聖法気(マナ)を完全に使い果たしたのか、ぐったりとして、意識が朦朧としているようだった。


「……おい、聖女、しっかりしろ」

俺は、なんとか身体を起こし、彼女の肩を揺する。


「……ここは……?」

イリスは、か細い声で呟き、ゆっくりと周囲を見回した。

そこは、見たこともない、鬱蒼とした森の中だった。月明かりが、巨大な木々の隙間から、まだらに差し込んでいる。霧の谷とは、明らかに違う場所だ。


「……転移は、成功したようですね」

イリスは、安堵のため息をつくと、そのまま再び気を失いそうになる。


「おい!」

俺は、慌てて彼女の身体を支えた。

聖女の身体は、驚くほどに軽く、そして、冷たくなっていた。

このままでは、まずい。夜の森の冷気と、マナの枯渇。この二つが、彼女の命を確実に削っていく。


俺は、イリスの身体を背負い、安全な場所を探して、覚束ない足取りで歩き始めた。

幸いにも、三十分ほど歩いたところで、岩壁に穿たれた、小さな洞窟を見つけることができた。


俺は、洞窟の中にイリスをそっと横たえさせると、枯れ枝を集めて、火を起こした。

パチパチと、炎がはぜる音だけが、静かな洞窟に響く。

その温かい光が、イリスの青白い顔を照らし出した。

眠っている彼女は、聖女という仮面を脱ぎ捨て、ただの年頃の少女にしか見えない。

その無防備な姿に、俺は、どうしようもない気まずさを感じていた。



〈魔王城〉


「まだ見つからんのか! アレンは! 妾の執事は、どこにおる!」


リリムの怒声が、作戦司令室に響き渡っていた。

彼女の前には、青ざめた顔のルナリアと、微動だにしないゼノンが立っている。


「申し訳ありません、リリム様……。アレン様の気配は、完全にこの一帯から……」

ルナリアが、おそるおそる報告する。


「言い訳は聞きたないわ! 妾の眷属を総動員してでも、探し出せ! 地の果てまで、ひっくり返せ!」


「リリム様」

それまで沈黙を守っていたゼノンが、静かに口を開いた。

「冷静になってください。アレン殿は、聖女と共に、転移魔法で離脱した可能性が高い。我らがこの森を探し回っても、おそらくは……」


「黙れ、ゼノン!」

リリムは、ゼノンの言葉を遮った。

「お主は、アレンが死んでもよいと申すか!」


「……滅相もございません」

ゼノンは、静かに頭を垂れた。

「ですが、今は、聖王国軍の残党を完全に叩き、城の守りを固めるのが先決かと。アレン殿も、きっと、それを望んでいるはずです」


ゼノンの言葉は、正論だった。

だが、リリムの心は、それを素直に受け入れられない。

アレンが生きて帰ってくると『契約』した。だが、もし、あの聖女に騙されていたら? もし、もう二度と……。


「……うぅ……」

リリムの瞳から、ぽろり、と大粒の涙が零れ落ちた。

「アレンの、馬鹿……! 妾を、一人にするでない……!」


魔王の、初めて見せる涙。

ルナリアとゼノンは、かける言葉もなく、ただ、悲しみにくれる主君の姿を、静かに見守るしかなかった。


その様子を、部屋の入口の影から、ライアスが、複雑な表情で、見つめていた。

彼の手は、強く、強く、握り締められていた。



(アレン視点)


パチ、と火の粉が弾ける音で、俺は浅い眠りから目を覚ました。

見ると、イリスが、いつの間にか目を覚まし、燃え盛る焚き火を、じっと見つめていた。


「……身体は、もういいのか」

俺が声をかけると、彼女はびくりと肩を震わせ、こちらを向いた。


「……ええ。あなたのおかげで、少しだけ、マナが回復しました」

その声は、まだ弱々しい。


再び、沈黙が落ちる。

何を話せばいいのか、わからない。

俺は、気まずさを紛らわすために、焚き火に新しい枝をくべた。


「……ごめんなさい」

不意に、イリスが、そう呟いた。


「何がだ」


「あなたを、巻き込んでしまった。わたくし一人の問題だったのに……」


「今更だろ」

俺は、ぶっきらぼうに答えた。

「それに、あんただけの問題じゃない。シオンは、俺の親友だ。あいつを、あんな歪んだ正義から、救い出してやりたい。……俺は、そう思ってる」


俺の言葉に、イリスは、驚いたように目を見開いた。

そして、ふわり、と。

初めて、彼女の心からの笑みを見た気がした。


「……あなたは、優しいのですね、アレン」

その笑みは、聖女のそれではなく、ただの、一人の少女の笑顔だった。


「なっ……! ば、馬鹿なこと言うな!」

俺は、慌てて顔を背ける。

なんだ、今の動悸は。疲れているのか?


俺たちの間に、先ほどまでとは違う、どこか甘酸っぱいような、むず痒い空気が流れる。

だが、その甘い雰囲気を、打ち破ったのは―――


グルルルルルル……。


洞窟の奥の暗闇から、響いてきた、低い唸り声。

そして、暗闇の中に、爛々と輝く、複数の赤い光が、ゆっくりとこちらに近づいてきた。


「……嘘だろ」


俺とイリスは、顔を見合わせた。

この洞窟は、空き家ではなかったらしい。

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