第25話 聖女からの招待状

翌日。

俺の身体は、驚異的な回復力で全快に近づいていた。リリムとの契約と、魔王城の滋養に満ちた空気のおかげだろう。

だが、精神的な疲労は、まだ深い霧のように俺の心にまとわりついている。


「よし……」


じっとしているのは性に合わない。

俺は、身体を慣らすために、ベッドから抜け出してストレッチをすると、木剣を手に取った。

シオンのこと、イリスのこと、考えなければならない問題は山積みだ。だが、まずは、この鈍った身体を元に戻さないと話にならない。


俺が軽く素振りを始めた、その時だった。


バタンッ!!


「こらーーーっ! アレン!」


部屋の扉が、勢いよく開かれた。

仁王立ちになっていたのは、頬をぷくりと膨らませたリリムだ。


「エリアから聞いたぞ! 病人がベッドを抜け出しておると! お主、自分がどれだけ無茶をしたか、わかっておるのか!」


「いや、もう身体は……」


「問答無用じゃ! お主は、妾が許可するまで、絶対安静! いいな!」


リリムはそう言うと、ずかずかと部屋に入ってきて、俺から木剣を取り上げようとする。だが、身長差で、俺が少し腕を上げるだけで、彼女の手は空を切る。


「むきーっ! 小馬鹿にしておるな!?」


ぴょんぴょんと飛び跳ねるリリム。その姿は、威厳ある魔王というより、おもちゃを取り上げられて拗ねる子供だ。

その光景に、思わず口元が緩む。


「あらあら、朝からお盛んですこと」


そこに、火に油を注ぐ声がした。

ルナリアが、優雅な仕草で扉に寄りかかっている。


「アレン様。そんな子供のお遊びではなく、わたくしとベッドで、もっと情熱的な運動はいかがですの?」


「だ、誰が子供じゃ! それに、アレンは病人じゃぞ! 運動など、もってのほかじゃ!」


「あら、ご存じない? 男女の交わりは、最高の治癒になるのですわよ? 特に、わたくしのようなサキュバスとのそれは、極上の霊薬にも勝りますわ」


「この変態痴女サキュバスめ! アレンをいやらしい目で見るな!」


「おやおや、魔王様こそ、アレン様を独り占めしようとなさって。それこそ、いやらしいのではなくて?」


始まった。

いつもの、騒がしい日常。

このやり取りが、今は、ささくれだった俺の心を、少しだけ癒してくれた。



昼過ぎ。

魔王城の作戦司令室では、重い空気が漂っていた。

俺とリリム、ルナリア、そしてゼノン。魔王軍の幹部が、円卓を囲んでいる。


「……というわけじゃ。聖王国軍は、森の入口まで完全に撤退。だが、斥候の報告では、その場に陣を敷き、次なる動きを窺っておる」

リリムが、厳しい表情で報告する。


「聖女イリス……そして、アレン様の元ご友人。厄介な敵ですわね」

ルナリアの表情からも、いつもの軽薄さは消えていた。


「あの男、シオンは、斥候としての腕を、暗殺術として昇華させている。厄介なのは、俺が、あいつを誰よりもよく知っていることだ」


「それは、利点なのでは?」

ゼノンが、静かに問う。


「逆だ。あいつも、俺の癖や弱点を、誰よりも知っている。ライアスがいなければ、俺は、昨日の初見で殺されていた」

俺の言葉に、一同は押し黙る。


「……アレン様の、あの黎明色の力。あれは、一体……?」

ルナリアの問いに、俺は首を振る。


「わからん。俺にも、何が起こったのか……。ただ、リリムの声が聞こえた。それだけだ」


「妾の声……?」

リリムがきょとんとする。

俺たちの力が、あの極限状態で、新たな段階に進んだのかもしれない。だが、それは、あまりにも不確定な切り札だった。


会議が終わり、俺は一人、地下へと向かった。

ライアスと、話をするために。


地下牢、というよりは、もはや普通の客間と変わらない部屋。

そこで、ライアスは、窓の外を、ただぼんやりと眺めていた。意識を取り戻したシリルが、心配そうに彼を見守っている。


「……身体は、もういいのか」

俺が声をかけると、ライアスはゆっくりとこちらを振り向いた。


「……貴様に庇われるとはな。最大の屈辱だ」

その声には、以前のような刺々しさはない。


「礼を言うつもりはない。だが、一つだけ、借りができた」


「別に、貸したつもりはない」


気まずい沈黙が、流れる。

先に口を開いたのは、ライアスだった。


「……あの男は、本当に、シオン、なのか?」

その声は、震えていた。


「ああ。間違いない」


「……そうか」

ライアスは、それだけ言うと、固く拳を握りしめた。

「あの野郎……! 俺たちが、あいつの死をどれだけ……!」


怒り、悲しみ、そして、裏切られたという絶望。

俺と同じ感情が、彼の中にも渦巻いている。

俺たちは、初めて、同じ痛みを共有していた。


俺とライアスが、ただ黙って、それぞれの想いを噛み殺していた、その時。


「失礼いたします、アレン様」

エリアが、神妙な面持ちで部屋に入ってきた。

「聖王国軍より、使者が。……アレン様、個人に宛てた、親書を預かっております」


「俺に……?」


エリアから差し出された、一通の封筒。

そこに使われた羊皮紙は、最高級のもので、封蝋には、聖王国と、聖女イリス個人の紋章が刻まれている。

俺は、困惑しながら、その封を開けた。


中にあったのは、簡潔な、しかし、ありえない内容の文章だった。


『――明日の日没、霧の谷にて、二人きりでお会いしたく存じます。

あなたのその力の正体と、世界の真実について、お話ししたいことがあります。

聖女イリス』


「……は?」


俺の口から、間抜けな声が漏れた。

ライアスも、シリルも、エリアも、その手紙の内容に、絶句している。

敵の総大将から、一対一の会談の申し込み。

罠だ。罠に決まっている。


だが、俺の心は、ざわついていた。

あの聖女の瞳。彼女は、本当に、何かを知っているのかもしれない。


俺は、聖女からのありえない招待状を握りしめ、ただ、立ち尽くすことしかできなかった。

選択を、迫られている。

それは、俺個人の運命だけでなく、この魔王城、ひいては、この世界の運命をも左右する、あまりにも重い選択だった。

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