第一章 狐面は笑わない

 東京郊外、夜。

 薄曇りの空から、ぱらりと雨が落ちていた。


 その日、薫の探偵事務所に届けられたのは、一通の手紙と、一枚の古びた写真だった。


 


 「──これは……」


 


 差出人は、鏡瀬村の元住人・大浦鷲三おおうらじゅうぞう


 封筒に入っていたのは、白無垢姿の少女と、彼女の隣に立つ“何か”の姿だった。


 少女は微笑み、隣には……白い狐面をかぶった、男のようなものが立っている。


 


 だが問題はそこではなかった。


 写真の下半分に、血のような赤茶けた染みがついていたのだ。

 ──少女の白無垢の裾が、赤黒く滲んでいた。


 


 「……この子、“死んでる”わよ。写真を撮られた時点でね」


 「薫ちゃん……これ、本物だよね?」


 


 白菊が手袋越しに写真を撫でる。


 ぬるり、とした嫌な感触。

 触れた指先に、一瞬だけ“血の匂い”が蘇った。


 


 「送り主によると、この写真の娘──**大浦千佳おおうらちか**は、村の“狐の嫁”として神隠しに遭ったらしいの」


 「狐の嫁……?」


 


 「“狐憑き”を忌む村では、時折、“神に嫁いだ”と称して生贄を出してたのよ。……白無垢を着せて、村の奥にある“封社”へ向かわせる。

 でもね──その子の遺体は、戻らない。名前も、戸籍も、消される。

 この写真は、その“儀”の直前に撮られた可能性が高いわ」


 


 薫は、机の上に並べた資料を睨むように見下ろす。


 鏡瀬村──山奥の閉鎖集落。十年ほど前に地元の開発で一部が崩され、いまは外部からもアクセスできるようになっているが、村の“本家筋”は今も因習を守って暮らしているという。



 「行きましょう、白菊。あたしたちが、この“写真に写った神”の正体を暴いてやる」


 「うん……。でも薫ちゃん、なんだか……背中が、ぞくっとするんだ。

  あの狐面の男、見てる気がする。僕の夢の中に……もういる気がするんだよ」


 


 そのとき、写真の隅がぴり、と破れた。


 真新しい傷口。血のような赤が、じわじわと染みてくる。


 ──狐が笑うのは、「花嫁」が決まった時。


 ──狐面をかぶった“神”が現れるのは、次の犠牲を選ぶ夜。


 ◆


 二日後。

 鏡瀬村、入り口の鳥居。


 そこは、薫ですら言葉を失うほど、“空気が沈んでいた”。


 風が吹かない。虫の声がしない。

 鳥居を越えた先にある道だけが、まるで時間を止めているかのようだった。


 


 「……なんていうのかしら。ここ、“生きてる”わよ」


 「うん……僕も。胸が苦しい。まるで、何かに“呼ばれてる”みたいな」


 


 村に入ってまず出迎えたのは、重たい沈黙と、

 そして、どこからともなく香ってくる線香と獣の臭いだった。


 


 「“狐の嫁入り”は、次の満月の日にまた行われる」


 


 村の案内人が、ぽつりとそう告げた。


 


 ──そして今宵、白菊はまた夢を見る。

 血に染まった白無垢の娘と、その隣で笑う、“狐面の男”。


 


 そして、その男が、ついにこちらを見た。


 


 その金色の目が、白菊の名を、喉奥で舌舐めずりするように囁いた。


 


 ──「次は……おまえ、だ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る