第2章「薔薇の棘は隠されて」
王都から追放され、薄汚れた乗合馬車に揺られること数日。私が辿り着いたのは、国境に近い商業都市「アステル」だった。活気はあるが、埃っぽく、洗練とは程遠い街。身分を証明するものは何もなく、わずかな金銭だけが、私の命綱だった。
安宿の固いベッドで、これからのことを考える。ただ生き延びるだけでは意味がない。復讐を果たすのだ。そのためには、力が必要だ。権力でも、武力でもない。今の私に唯一残された力――それは、知識。ローズベルク公爵家で叩き込まれた、帝王学。財務、経済、法学、そして複数の言語。これらは、未来の王妃になるための教育だったが、皮肉にも、平民として生き抜くための最強の武器となった。
まずは、安定した収入源を確保しなければ。そう思い街を歩き回っていた時、私の目に飛び込んできたのは、閉鎖された小さな店の扉に貼られた「貸店舗」の張り紙だった。その瞬間、私の頭の中に一つの計画が閃いた。
その夜、宿屋に戻る道すがら、路地裏で数人のゴロツキに絡まれた。
「お嬢ちゃん、一人かい? 少し付き合えよ」
絶体絶命かと思った、その時だった。
「おやめなさい。その方に何か御用ですか」
凛とした、しかしどこか懐かしい声。ゴロツキたちの背後に立っていたのは、見覚えのある長身の男性だった。月明かりに照らされた銀色の髪と、穏やかながらも鋭い光を宿す瞳。
「セシル……?」
「……お久しゅうございます、アリシアお嬢様」
そこにいたのは、かつてローズベルク公爵家に仕え、誰よりも私を理解してくれていた執事、セシル・グレイだった。公爵家が取り潰された後、行方が分からなくなっていた彼が、なぜここに。
セシルは、まるで邪魔な小石でも払いのけるかのようにゴロツキたちをあしらうと、私の前に恭しく跪いた。
「おいたわしいお姿に……。お嬢様のことは聞き及んでおりました。必ずやお探しし、お力になろうと、この街で先回りしておりました」
彼の言葉に、ずっと張り詰めていたものが、ふっと緩んだ。この男だけは、私を裏切らない。その確信が、冷え切った心に温かな光を灯してくれた。
セシルに私の計画――商人として再出発する意志を伝えると、彼は静かに頷いた。
「素晴らしいお考えです。お嬢様には、その才覚がおありになる。資金については、私がかつてお預かりしていたものを。ローズベルク公爵があなた様を見捨てることを予見した奥様……お母上が、万一の時のためにと私に託されたものでございます」
母が? 私が幼い頃に亡くなった、優しい母が、未来の私を案じてくれていた。セシルが差し出した革袋はずっしりと重く、それは単なる金銭以上の重みを持っていた。
「ありがとう、セシル。あなたがいれば、百人力だわ」
「お嬢様の望むことならば、いかなることでも」
私たちは早速、あの貸店舗を借りることにした。
アリシア・ローズという偽名を使い、私は商人としての第一歩を踏み出す。公爵令嬢アリシアは死んだ。これからは、商会の主、アリシア・ローズとして生きる。復讐の舞台は、私が作る。薔薇の棘は、今、静かに土の下で研ぎ澄まされていた。
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