第16話 刺客
大体において腹が減ると、人間は思考力が鈍るもの。
これは湖(レイク)の経験則だ。特に、はちみつパンケーキのような甘いものを欲する時は、たいてい精神的にも肉体的にも疲労困憊している証拠だった。背後でガタ、と物音がした時、湖は反射的に身体を低くした。新しく短くなった髪が、首筋にひやりと触れる。彼女にとって、あたらしい感覚だった。
「ごきげんよう、レイクさん」
間の抜けた声が聞こえた。そこにいたのは、小太りで眼鏡をかけた男だった。男はスーツを着ているが、どこか着慣れない様子で、まるで父親の服を借りてきた子供のようだ。しかし、その手には自動小銃が握られている。そして男の背後には、同じようなスーツ姿の男が二人。一人は背が高く細身で、もう一人はがっしりとした体格をしていた。おそらく、GIPD研究所から派遣された刺客だろう。彼らは湖の顔を知っているはずだ。
「あら、ごきげんよう。どちら様?」
湖は立ち上がりながら、とぼけた声を出した。もちろん、相手が何者かは薄々察している。ONGRかGIPD、あるいはそのどちらとも繋がりのある、さらに別の組織の人間か。ともかく、彼女のパンケーキ計画を邪魔する者たちであることには変わりない。
「我々は、貴女をラボへとお連れする任務を帯びた者です。私の名前は鳥。彼は猿、そしてあちらが馬です」
小太りの男が、流れるような動作で銃口を湖に向けた。鳥、猿、馬。まるで動物園の入園券のようだ、と湖は思った。もう少し気の利いた偽名はないものだろうか。例えば「ライオン」とか「ワシ」とか。いや、鳥がもういるか。
「なるほど。で、研究所では何をするんです? 最新型のMRIで脳をスキャンするとか、それとも新作の薬の人体実験とか?」
湖は涼しい顔で尋ねた。心臓はドクドクと警鐘を鳴らしているが、それを表に出すのは三流の悪役だけだ。
「それはお越しになってからのお楽しみ、というわけです」
鳥はにやりと笑った。その笑みが、まるで飼育員が餌を与える前の動物を見るようなものに見えて、湖は少しだけ苛立った。
「ふぇぇ。それは困りましたね。私、今から大切な用事がありまして。はちみつパンケーキを食べに行かねばならないんです。焼き立ての、バターがとろけるようなやつを」
湖はわざとらしく溜息をついた。猿と馬は無表情で立っているが、鳥はわずかに眉をひそめた。
「我々を、舐めておられるのですか?」
「とんでもない。ただ、焼き立てのパンケーキはサクサクなテクスチャがキモですから。冷めてしまったら台無しでしょう?」
湖はゆっくりと、ポケットに手を入れた。鳥の銃口がわずかに下がる。その隙を、湖は見逃さなかった。ポケットから取り出したのは、小さな折り畳み式のナイフだった。先ほど髪を切るのに使ったアーミーナイフとは別の、護身用のものだ。
「残念ですが、それは叶いません。さあ、大人しく」
鳥が言い終わる前に、湖は地を蹴った。一直線に鳥へ向かう。鳥は慌てて銃を構え直そうとするが、その動きは湖より一拍遅かった。湖はナイフを鳥の腕に滑り込ませ、銃を地面に叩き落とす。鳥がうめき声をあげる間に、湖は猿と馬の方へ視線を走らせた。猿はすでに拳を構え、馬はポケットから何かを取り出そうとしている。
「あらら、随分と慌てていらっしゃる。もっとスマートにいきましょうよ、レディース&ジェントルメン」
湖は挑発するように言った。その言葉に反応したのは猿だった。猿は唸り声をあげ、まるで野獣のように湖に飛びかかってきた。湖は身をひねり、猿の拳をかわすと、その勢いを利用して猿の背後に回り込む。そして、猿の首筋にナイフの切っ先を突きつけた。
「さあ、馬さん。あなたは何を取り出すおつもりでしたか? スマートフォン? それとも、さらに大きな銃?」
湖の声が倉庫に響き渡る。馬は動きを止め、ゆっくりと両手を上げた。鳥は腕を押さえ、苦痛に顔を歪めている。
「賢明なご判断です。で、ここからどうします? あなた方はラボに手ぶらで帰るわけにはいかないでしょうし、私もパンケーキを逃すわけにはいきません」
湖はにこやかに提案した。三人の刺客は顔を見合わせ、まるで相談するように黙り込んだ。彼らの任務は湖を連行することだが、この状況ではそれも難しいだろう。
「一つ、プランがあります」
湖は続けた。
「あなた方には、私を逃したことにして、しかしその代わり、別の『成果』を持ち帰っていただく。たとえば、私が残した『情報』とか。それなら、体裁も保てるでしょう?」
鳥が訝しげな目で湖を見た。
「どんな情報ですか?」
「それは、これから考えます。ただし、条件があります。一つ、あなた方はこれから三日間、私を追わないこと。二つ、はちみつパンケーキを奢ること。それも、出来れば美味しいお店のやつで」
「ブホッ」
馬が思わず吹き出した。猿は相変わらず無表情だが、その目には動揺の色が浮かんでいた。鳥は湖の真剣な表情を見て、これが本気であると理解した。そして、その提案が悪くないことに気づいた。研究所に成果を持ち帰れないよりは、多少の不都合は受け入れる方が賢い。それに、パンケーキを奢るという奇妙な条件が、逆にこの状況の非現実感を増幅させ、彼らの判断を鈍らせていた。
「…承知いたしました。ただし、パンケーキはそちら持ちです」
鳥が渋々承諾した。湖は満足げに頷き、ナイフを猿の首筋から離した。
「それは残念。でも、仕方ないですね。では、早速ですが、この倉庫の隅にある使われていない段ボール。あれが、とある組織の極秘情報の隠し場所です。もちろん、空っぽですが」
湖はウィンクした。鳥、猿、馬は半信半疑の顔で段ボールの方を見やった。その隙に、湖は軽やかに倉庫の出口へと向かった。
「おっと、一つ忠告を」
湖は振り返った。
「人生は、はちみつパンケーキと同じで、熱いうちに食べないと損ですよ。それじゃあ、またどこかで」
そう言い残し、湖は薄暗い倉庫から、夏のまぶしい日差しの中へと消えていった。鳥、猿、馬は、取り残された倉庫の中で、互いの顔を見合わせた。そして、段ボールの山へと歩み寄った。空っぽの段ボールを前に、彼らはこれからどんな報告書を書けばいいのか、頭を抱えることになるだろう。一方、湖はすでに次の行動を考えていた。まずは、美味しいはちみつパンケーキを探すことだ。そして、次は咲川に連絡を取る方法を見つけること。
「咲ちゃん、待ってて。とっておきのお店を探すわ········」
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