第一章 視ヲ奪フ

 じりじりと焼けるような日差しが、アスファルトに濃い影を落としている。


「……あづい……死ぬ……あたし溶けちゃう……」


 女物の白い日傘をくるくると回しながら、楠木薫はぐったりとした様子で坂道を登っていた。透けるような長袖ブラウスとふわりと揺れるロングスカートという姿は、遠目には若奥様そのもの。だが、艶やかな紅い唇からは、容赦ない文句が次々と漏れていた。


「で、なんであたしがこんな真夏の昼下がりに、山の上のボロアパートなんか来てるわけ?」


 問うた先にいるのは、麦わら帽子を手に持ち、淡い水色のシャツを着た男――京極堂白菊だった。ぽやんとした微笑を浮かべながら、彼はペットボトルの水を薫に差し出す。


「だって……僕が呼んだからだよ?」


「……可愛い顔して言えば許されると思ってんじゃないわよ、アンタ」


 口では毒を吐きながらも、受け取った水を開けてごくりと喉を鳴らす薫。その視線が、目の前にある建物へと向く。古びた外階段と、すすけた灰色の外壁。まるで時間から取り残されたかのようなアパートだった。


「ここが……“消えた”って子の部屋ね?」


「うん。大学の後輩だったんだ。週末に原稿を見てもらう約束してたんだけど……連絡が取れなくて。昨日、彼の友人から“電話中に突然何かに怯えたように叫んで、音信不通になった”って聞いて、気になって来てみたら……警察は“家出”扱いだったんだ」


「はぁ~? また警察ったら呑気ねぇ……現場保存もしてない感じ?」


「うん、でも中は鍵がかかってたから不法侵入の心配はない、って……薫ちゃん?」


 薫の目が鋭くなった。


 その表情は、白菊がよく知っている顔だった。――人ではない“何か”を、感知したときの、霊視者の顔。


「……入るわよ。絶対に、あたしの後ろから離れないこと」


「う、うん……」


 


 室内は静かだった。生活感は残っているが、どこか“空っぽ”な印象。


 空気が濁っている。埃じゃない。もっとこう……“何か”が居座っていた後のような、そんな圧。


「……お香の匂い?」


 白菊が呟いた。薫もまた眉をひそめる。


「……いや。“墨”よ。これは……墨の香り。――白菊、そこに近寄らないで」


 部屋の一角。机の上に一枚の半紙が置かれていた。


 白く、滑らかな紙面に、異様な文字列。


 ぐねぐねと歪んだ筆致。明らかに現代の書ではない。意味不明な文体に、黒々とした墨の滲みが浮かび上がっている。


「これが……彼が最後に残したもの?」


「違うわ。“彼が残した”んじゃない。“これが残した”のよ」


 薫の声が低くなる。半紙を見つめながら、手のひらで霊力の流れを感じ取る。


「……写本師の……怨霊?」


「怨霊……?」


「詳しいことはまだわからないけど、これは典型的な“呼ぶための文字”。この文字を“見る”ことで、呪いが伝染するタイプ。――視認型呪物よ。あんた、これに触れてないでしょうね?」


「うん……でも、僕……資料探しで、似たような筆跡の古文書、最近いくつか読んだかも……」


 その瞬間、部屋全体の空気がひときわ冷たくなった。


「――っ!?」


 薫が白菊の腕を引き寄せた。


 壁の影から、じわり、と墨のような何かが這い出してくる。人の手の形を模したような“黒い指先”。五本の指が、床を叩きながら、こちらに這い寄ってくる。


「白菊、目を閉じなさい! あたしの声だけ聞いて!」


「っ、うん……!」


 床から生える“墨の手”が白菊に伸びかけた瞬間、薫が懐から塩の入った袋を取り出し、勢いよく撒いた。


 バッ、と“手”が消え、部屋の気配が一瞬だけ静まる。


「ふぅ……まだ“完全には”出てきてないみたいね。でも、もう一歩遅かったら――あんた、“書かれる”ところだったわよ」


「書かれる……?」


「その身体に、名前を。筆跡を。あたしが見たことあるの。“筆で書くことで、存在を奪う怪異”……。あんたが何も感じてなかったのが逆に怖いのよ。天然霊媒体質もいい加減にしなさいよね」


 怒ったように薫は白菊の額を指で小突いた。


 痛くはない。ただ、あたたかかった。


 白菊は、ふと口元を緩める。


「……やっぱり、薫ちゃんは……格好いいね」


 その言葉に、薫の動きが止まった。


「……な、な、何言ってんのよあんた……あたしは別に、そんなんじゃ……」


「昔も、今も。怪異なんかより、薫ちゃんが一番怖くて……一番、頼もしい」


「……はあ。……もーやだ、もう! このバカ白菊!!」


 薫はぷいと顔を背ける。


 その耳元が、僅かに紅く染まっているのに、白菊は気づいていない。

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