第二章 険しい契約結婚③


 じりじりと居心地の悪いまま昼食時になった。ここでも比奈子はまた一瞬迷いはしたが、自分の昼食だけを用意して一人で食卓についた。いないものとして、という相手の要望に添った行動だったはずだが、自分が香ばしい焼き魚をつつく横に、持参していたらしき携行食――米やら雑穀やらを握り固めたような見た目のもの――を書類に目を落としたまま囓っている男がいるというのは、こちらの居心地の悪さを一層倍増させた。自分がしているのは相手の要望通りの行動のはずだし、そもそも相手は前世で自分を殺した敵であるにも拘らず、罪悪感に似た感覚すらある。

(お昼は持ってきたものがあるからいいとして、お夕飯はどうする気?)

 交わした書類にもあった通り、この家の台所や食材を使ってもらう分には一向に構わないが、監視任務である以上台所に長時間籠もって手の込んだ料理をすることはできないのではないか。無論、同じ理由で外食もできないに違いない。

 ひょっとしてこの家にいる間中ずっと、あの握り飯のなり損ないのような、よくわからないが最低限の空腹を満たすことだけを目的としていそうなものを部屋の隅で囓り続けるつもりだろうか。

(……別に私が気に掛けるようなことじゃないわ。小さな子ども相手じゃあるまいし)

 そうだ。大の大人が自分の面倒を自分で看ることなんて、息をするのと同じくらい当たり前のことのはずである。客じゃない、客じゃない、と頭の中で繰り返し唱えながら比奈子は昼食を終えた。あまりの居心地の悪さに、味なんてよくわからなかった。

 後片付けのために立ち上がり、台所へ向かう。また後をついてくるのだろうな、と思い、その思考の通りに琉河が立ち上がる物音がするのを確認する。過度に気にしたら駄目だと思うのに、家の中に自分以外の誰かがいるという状況そのものがこちらの神経を過敏にさせた。

 調理をしているときと同様、洗い物をしている間もずっと、背中に視線を感じる。

 琉河は比奈子が暮らしている様子をじっと監視している。時折手帳に何かを書き付けたり、持参した資料を参照したりしながら、基本的には本人の言葉通りいないものとして振る舞っている。それがまるで、自分が家畜になって柵の中に入れられ、主人に外から絶えず見張られているような、何だか歪な居心地の悪さがあるのだ。同じ家の中にいながら見えない壁に隔てられた別空間に放り込まれているかのような。

 自分が置かれた状況を俯瞰した途端、比奈子は不意に限界を感じて、一旦厠に逃げ込もうと洗い物を途中で切り上げた。こちらがいきなり台所を飛び出そうとするとは思っていなかったのだろう、台所の出入り口に立っていた琉河はまったく動かない。比奈子は比奈子で、何となくこの男はこちらの動きを先読みして機敏に動くような気がしていたので、そのまま琉河に正面から突進するような格好になってしまった。

 狭い廊下である。当然、比奈子は琉河の胸のあたりにどんとぶつかった。

 ぶつかった瞬間、琉河が咄嗟に手を差し出してきた。比奈子は別に転びそうになったわけではないが、まるきり反射的にそれを庇おうとするような動作だった。身体の前に腕が差し出されてきたので、比奈子のほうも咄嗟にその腕を摑んでしまう。

「……あ」

 思わず声が漏れた。続けて謝罪の言葉がまろび出そうになり、慌てて口を噤む。

(……いないものとして、って、どの程度?)

 他人にぶつかったからには礼儀として謝るべきなのか、それとも。

 比奈子がまごまごしている間に、琉河は差し出していた手をすっと引っ込めた。比奈子も摑んでいた手を放す。

 琉河は何も言わない。前をよく見ろと咎める言葉も、大丈夫かと気遣う言葉も。

 まるで本当に、箱の中のものを外から淡々と観察しているような態度だ。つかず離れず、過度に関わることも過度に突き放すこともなく、ただ本当に空気のようにそこに存在するかのような。

 ひとまず彼の態度に倣うことにして、比奈子は何事もなかったかのように、そのまま厠へと向かった。さすがに厠の出入り口ぴったりにまではあの男もついてはこなかった。

 扉を閉め、比奈子は自分の手を見下ろす。さっき触れたあの男の腕は、当然だが自分の腕とは形も感触もまったく違う、今まで一度も触れたことのない他人のものだった。手を差し出されたときに一瞬だけ彼の腕の中に収まるような格好になってしまったせいで、彼の胸にぶつかった自分の肩のあたりにも、固いようなそれでいて柔らかいような、温かい体温をその奥に感じるような感覚があった。

 空気のようにそこにあるのに、でもそこにいるのは空気などではなく、紛うことなき生きた人間の男であることを知らしめてくるような。

 何だか身体がむずむずする。居心地が悪い。胸の奥が痒くて搔きむしりたくなる。

 ここは自分の家だというのに。

(この家の主は私なんだから、私が居心地好いように過ごしていいはずよ)

 自分にそう言い聞かせながら、比奈子は深く溜息を吐いた。

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