第二章 険しい契約結婚②
比奈子はてっきり、任務は日を改めて開始されるのだと思っていた。
そうではないのだと気付いたのは、同意の書類に署名したあと、琉河が玄関の外に置いていたらしい大きな鞄を持って家に入ってきたときだ。
どう見ても泊まりがけの用事でしか必要なさそうなその大荷物を見て、比奈子は一瞬頭が真っ白になるのを感じた。
「……あの、まさかとは思うけど、監視って今すぐ始まったりしないわよね?」
すると琉河は実に怪訝そうな目でこちらを見た。
「もう既に一週間ほど猶予を与えてしまった状況なんだ。これ以上証拠隠滅の時間を与えられるはずがないだろう」
当然と言わんばかりのその言葉に、比奈子はこの監視任務が一応名目上は違法毒ガス密造を暴くためのものだということを思い出した。本当に毒ガスが問題なら一週間もあれば粗方の証拠は隠滅できてしまうだろう。尤もこの男の目的は比奈子が匿っている妖なのだから何の問題もないのだろうが。
(私が尻尾を出すまで真の目的には触れずに、あくまで毒ガスが問題だって言い張るわけね)
比奈子はにっこりと形式だけの笑顔を浮かべてみせた。
「わかりました。どうぞ、狭い家ですが」
この期に及んでうだうだと文句を垂れても仕方がない。こちらの立場を悪くするだけだ。比奈子は余所行きの立ち居振る舞いで、琉河を家の中に招き入れる。
琉河は凡そ若い女の家に上がり込む若い男とは思えないような、剣呑とも言える眼差しで家の中を注視しながら、それでも「邪魔をする」と口にして家に上がってきた。本当に邪魔だわ、と反射的に吐き捨てそうになったが、相手が最低限の礼儀は尽くすつもりのようなので何とか堪えた。
家に上げたはいいものの、他人を自宅に招くという機会が今までの人生にほぼなかった比奈子である。しかも相手は客人ではない。あまりに希有な状況にしばし黙考する。
(こういうとき、まずどこに通すべきなの? 二階に部屋は余ってるけど……)
普通ならば応接間に通すべきなのだろうが、誰かを応接することなど今生で想定していないこの家にそんな用意などない。となると居間かとも思うが、ひとまずあの大荷物をどこかに降ろしてもらう必要があるだろう。滞在中どこで寝起きしてもらうかという話にもなってくる。独り住まいの身なので二階の部屋はほとんど使っていないし、一部屋はほぼ開かずの納戸になっているが、幸か不幸か自宅で過ごす時間だけはたくさんある人生なので隅々まで掃除は行き届いている。予備の布団も先日、とりわけ暖かかった日に干したばかりだ。図らずも同居人を迎え入れる準備は整っている。
こちらが途方に暮れているのを知ってか知らずか、琉河が口を開いた。
「お前が普段生活しているのはどこだ」
「主に一階よ。居間と、お台所やお風呂場と、廊下の奥に裏庭に面した襖続きの部屋があるから、片方を寝室として使ってるくらい」
だからあなたは二階へ、と話を続けようとしたのだが、琉河はなぜか廊下の奥――比奈子の寝室のほうを見た。
「もう一部屋は空いているんだな?」
「空いてるけど……」
答えてすぐに彼の意図を察し、さすがに比奈子は眉を顰めた。
「まさかそこを使うつもり? 冗談はよして。言ったでしょ、襖続きだって」
いくら何でも異性との生活空間を区切る壁として襖では頼りなさすぎる。開けようと思えばいつでも開けることができるのだから。
しかし比奈子の制止をよそに、琉河は廊下をずんずんと歩いていってしまう。
「これが監視任務だということを忘れてもらっては困る。本来ならば同じ部屋で寝起きしなければならないような案件なんだ」
(襖のぶん譲歩しているとでも言いたいの!?)
焦ってその背を追いかけるが言葉にならない。比奈子自身の身の潔白をさっさと証明するためには、これもやはり頑なに拒否するのは悪手であるように思えたからだ。
空いているほうの部屋に遠慮なく大きな鞄を下ろす琉河の姿を見ながら、比奈子は拳を握った。
(……わかったわよ。こっちだって襖一枚隔てて異性がいるからって萎縮するような可愛げは持ち合わせてないわ。思う存分、私の生活音でも何でも聞けばいいじゃないの)
比奈子は受けて立つと言わんばかりに腕組みをし、半眼で琉河を睨んだ。
「お布団は押し入れに入ってるから自分で勝手に敷いてちょうだい。朝お布団を上げるのも自分でやって」
「わかっている。極力面倒はかけないよう努める。俺は客ではないからな」
(……あら。それはわかってるのね)
比奈子は思わず眉間の力を緩めた。
「掃除や洗濯は俺が使った範囲内で適宜行なう。それで構わないか」
「……ええ、まあ。署名した書類にもそんなようなこと書かれてたし」
思わずそう答えてから慌てて首を横に振る。
「私の物にあまり触らない範囲でよ。物っていうのはその、任務に関係ないものっていう意味で。家の中も隅々まで捜査が必要だってことは理解してるし、その範囲なら好きにしてくれて構わないけど」
「わかっている。協力感謝する」
琉河は畳の上に膝をつき、鞄の中から書類やら何やらを取り出しながらそう答える。本当にわかっているのだろうか。初対面の女の前で胸もとを露わにした無作法さを思うと少々心配だ。不埒なことを不埒だという自覚のないまま悪意なくやってのけそうな危うさが、この男にはある気がする。
それにしても、と比奈子は何だか場違いなほどにしみじみとした心持ちで目の前の男を見下ろした。
(……家の中に他人がいるのって、変な感じね)
それもよりによってこの男が、刀も抜かず、敵意も剝き出しにせず、自分の目の前で鞄をごそごそと漁っているだなんて。
大きな旅行鞄のように見えたが、着替えや身の回りのものはどうやら最低限のようで、中には捜査に必要なのであろう書類がぎっしり詰まっている。本当にただ勤め先が一時的にこの家に移っただけの、宿直している公務員だ。
(今まで通り普通に暮らせって言われてもね……)
いつまでもこの場に留まるのもおかしな気がして、比奈子はひとつ嘆息し、部屋を後にする。普段ならば茶を淹れて本でも読んでいる時間だ。
台所へ向かう比奈子の後を、少し離れて琉河がついてくる。話しかけてくるでもなく、何かを特別見咎めるでもなく、ただ比奈子の挙動を観察している。
なるほど、こういうことか、と比奈子は思わず嘆息した。
正直、居心地が悪いことこの上ないが、早く慣れねばならないのだろう。今比奈子がすべきなのは、この家で起こる妖にまつわるすべての事象と怪奇現象を完全に無視し、怪しむべきところなど何一つない善良な一市民としての生活をこの男に見せつけることだけということだ。
台所で湯を沸かしながら――背中には視線を感じつつ――比奈子は棚から湯呑みと茶葉の入れ物を取り出した。一瞬、湯呑みは二つ用意したほうがいいのかと迷ったが、そんなわけはないと思い直した。彼自身の言う通り、あの男は客ではない。それに比奈子が署名した書類には、生活に必要な範囲で監視官がこの家の備品を使わせてもらうこともあるということと、監視官の食費など滞在中にかかった生活費は裏中務が出すということも書かれていた。つまり湯呑みや茶葉は勝手に使って自分で茶を淹れてもらい、飲んだ後は自分で片付けてもらい、その上でかかった茶葉代は裏中務から支払われるということだ。
(……もしかして、この同居生活ってそう労せずしてやり過ごせるんじゃない?)
自分の分だけ淹れた茶を持って居間に行き、座布団に座り、卓袱台の上に置きっぱなしにしていた読みかけの本を手に取る。琉河は部屋の隅に詰まれた予備の座布団を一枚取り、少し離れた隅のほうに腰を下ろす。手には何かの書類と鉛筆を持って、時折何かを書き付けている。
それだけだ。
片や茶を啜りながら本を読み、片やじっと座している。会話もなく、何なら緊張感らしきものもなく、ただ時間が過ぎていく。
しかし比奈子は普段通りに本の世界に没頭することはできなかった。視界の端に今まで存在しなかった異物が映り込んでくるのだから当然だ。制服の色が白というのも良くない。どうしてもちらちらと気が散る。それにこの男、何だか静かすぎる。いないものとして振る舞ってくれるのはいいが、何の無駄な物音も立てない。こちらの呼吸音まで丸聞こえなのではと思うほどだ。思わず何となく息を潜めてしまう。
比奈子は目が滑ったまま頁だけを繰り、茶がすっかり冷め切った頃に諦めて本を閉じた。沈黙に耐えかね、思わず口を開く。
「二階の捜査っていつするの? 必要なら部屋を案内するけど」
すると琉河は首を横に振った。
「必要ない。基本的に俺への何かの声掛けも不要だ。俺のことはいないものとして、お前はお前の普段の生活を続けてくれ。必要な時にはこちらから声を掛ける」
淡々とそう返されて、比奈子は内心で嘆息した。
(つまり私が寝てる間とか、私に邪魔されない隙に捜査するってことね)
しかしいないものとして振る舞うにも限界があるような気が早くもしてきている。何しろ掛井琉河はこの決して広くはない家の中に確かに存在しているし、比奈子の一挙手一投足を注視してくるし、視界の端にちらつくのは目に眩しい白ときている。
「……ひとつ頼みがあるんだけど。その制服、ちょっと堅苦しすぎやしない? ご近所の目も気になるし、何とかならないかしら」
比奈子にとっては死の象徴にも等しいこの白い軍服だけでも何とかならないかと思ってそう訊いてみると、意外なことに今度は琉河は頷いた。
「今夜からは普段着で過ごさせてもらう。元よりそのつもりではいた」
「……そう。助かるわ」
それきり琉河がまた口を噤んでしまったので、比奈子は再び胸中で深く嘆息した。
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