第28話
汗をぬぐっているとそんな穏やかな空気が流れる庭へ、一人の女性がやってきた。
「クリストフ様、シルヴィア、そしてファナもごきげんよう。出発の時間が迫ってまいりましたので、ご挨拶に参りましたの」
声の主は、遠征用の機能的ながらも気品を損なわない軽鎧に身を包んだエステルだった。
彼女は今日からクランあての依頼でしばらく迷宮都市を離れることになっていた。
クリストフは汗をぬぐいながら、エステルに笑みを向ける。
「エステルおはよう。今日から遠征だったね」
声をかけると、エステルは心なしか潤んだ瞳でクリストフを見つめ、か細い声で答えた。
「……ええ、そうなのですわ。クリストフ様……今回の遠征先は、わたくしの力では少々荷が重いのではと……。もし、恐ろしい魔物に遭遇してしまったらと考えると、不安で夜もろくに眠れなくて……」
エステルが今にも泣き出しそうな様子でくしゃりと顔を歪め、袖で目元を軽く押さえる仕草をする。その傍らで、シルヴィアとファナがひそひそと小声で囁き合う。
「……普段からしょっちゅう高難易度の遠征に嬉々として出かけているくせにね」
「そうだな。あのエステルが心配するようなことなど、まず何もないだろうに」
「むしろ、これからエステルに遭遇することになる魔物の方が可哀想よね」
そんな二人の囁きなど露知らず、エステルはクリストフに一歩近づき、潤んだ瞳を上目遣いに向けた。
「もしよろしければ、このエステルに、旅立ちの勇気を賜る力強い抱擁など……いただけませんこと? クリストフ様の温もりに触れれば、きっとどんな困難にも立ち向かえる気がいたしますの……」
「それはさすがに、今おじさんは汗もかいているしね。出発前に汚したら悪いよ」
エステルの言葉に、クリストフは思わず息を呑んだ。いくら勇気を出すためとはいえ年頃の美しい女性を抱きしめるなど、抵抗があった。
クリストフが答えに窮していると、エステルは彼の額に滲む汗に気づき、ふふ、と小さく笑みを漏らした。
「あら、クリストフ様。汗などお気になさらず。それもまた、わたくしにとっては出発前の芳しいテイスティングとなりましょうか。ええ、きっと忘れ得ぬ思い出の香り……」
「エステル、あなた一体何を言っているのかしら?」
「そうだぞエステル。クランの皆を待たせているのではないか。さっさと行ってこい」
シルヴィアとファナが、すかさず鋭いツッコミを入れる。二人は、まるで悪戯が過ぎた妹を諭す姉たちのように、しかし有無を言わせぬ力でエステルの両脇を優しく、だがしっかりと固め、門の方へと促していく。
「まあ、シルヴィア、ファナ。少し強引ではありませんこと? わたくしは、まだクリストフ様と、大切な大切な出発前のご挨拶の続きがぁぁ……」
エステルは、抵抗らしい抵抗は見せないものの、ぷくーっと不満げに頬を膨らませ、名残惜しそうにしていた。
その大きな瞳には、未練がたっぷりと浮かんでいる。しかし、強引にシルヴィアたちが押していく。
「はいはい。いってらっしゃーい、エステル。武運を祈ってるわよ」
「お前ならば問題ないとは思うが、道中、気を付けるのだぞ」
シルヴィアは手を振り、ファナは言葉少なながらも気遣う言葉をかけた。
門の方へと送り出されたエステルは一度だけ振り返る。
そして、彼女の甘えたような声が、庭へと響いた。
「必ずや、クリストフ様にご満足いただける成果を上げ、そして無事に戻ってまいりますわ。ですから、どうか……お待ちになっていてくださいまし」
「とにかく、気を付けて行ってきてね」
「ええ、もちろんですわ」
エステルはとても明るい笑顔とともに微笑み、遠征へと出発していった。その姿が見えなくなるまで手を振っていると、
「……そろそろ食事にしましょうか」
シルヴィアの言葉に頷き、屋敷の中へと向かうのだった。
三人が朝食の席に着くと、焼きたてのパンの香ばしい匂いがふわりと鼻孔をくすぐった。今日のスープも野菜がたっぷりで優しい味付けだ。
食事を楽しみながら、クリストフは二人へと問いかけるように口を開く。
「そういえばエステルは、新規に発見されたとかいうダンジョンの調査を行うんだったっけ」
「ええ、そうね。近くの領地で新たに見つかったダンジョンの調査ね。規模はまだ不明だけれど、その初期調査隊として派遣されることになっているわ」
「新しいダンジョンか……。ダンジョンっていうのは、基本的には最深部にあるっていうダンジョンコアを破壊すれば、それで終わりになる、だったね?」
クリストフの問いに、ファナが補足するように説明を加える。
「そうです、さすが我が主……それが基本的な構造だ。ダンジョンコアを破壊すれば、その迷宮は活動を停止し、やがて消滅する。現在、このアルカディア迷宮を超える規模のものは確認されていないが、新たなダンジョンが発見された場合、まずはコアの破壊を目指すのが定石になっているな」
「……だよね。アルカディア迷宮の最深部は今もわかっていないから、たくさんのクランがそこを目指している、と。途方もない話だねぇ」
「そうなるな。もちろん、万が一のことを考え、いつでもダンジョンコアを破壊できるようにしておくために内部構造を把握したいというのが建前だが、多くのクランや冒険者たちは歴史に名を刻むために潜っていることが多いな」
「なるほど。確かに、それは少し心そそられるものがあるね」
ファナとのやり取りにクリストフが頷いていると、シルヴィアが訂正するように続ける。
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