第22話
ファナがどうしてクリストフを慕うようになったのか。それは、彼女の過去に理由があった。
その昔。ファナはアスカリ族と呼ばれる魔族の中でも、特に力と魔法が強いことで有名だった。
しかし、それも過去の話。
――ファナは、動かない自身の左腕を忌々しげに見つめていた。
肩から力なく垂れ下がるそれは、かつては武器を軽々と持ち上げ、強力な魔法を使用するための基点となった腕だった。
だが今は――時折走る鈍い痺れ。
意思とは無関係に微かに痙攣する無用の長物だった。
さらには、視界もよくなかった。
右の眼窩には、鋭利な刃物で抉られた生々しい傷跡が残り、永遠に闇に閉ざされてしまっていた。
満足に食事もとれず、体はやせこけてしまっていた。
力と魔法に優れた戦闘種族アスカリ族の若き族長として、かつて名をはせていたというのに……今はそんなことになってしまっていた。
そうなった原因は、まさにそのアスカリ族の集団で生活していたからだ。
アスカリ族は、強靭な肉体と、魔力を自在に操る才能に恵まれた戦闘民族だ。ファナもまた、その血を色濃く受け継ぎ、誰よりも強く、誰よりも気高くあろうと、幼い頃から血の滲むような鍛錬と修練を重ねてきた。
同年代の誰よりも早く強力な魔法を習得し、族長に代々伝わる戦技を極めた。その冷静な判断力と卓越した戦術眼は、多くの戦場で勝利をもたらし、若くして部族の頂点――族長の地位へと君臨した。
アスカリ族はますます力をつけていった。しかし、そんなファナの族長としての生活はある日突然に、終わりを迎えることになる。
最も信頼していたはずの副官の裏切りによって――。
それは、部族間の勢力争いが激化していた時期のことだった。ファナは、信頼する副官から「敵対部族の族長と密会し、和平交渉の機会を得た」という、願ってもない情報に誘い出された。
和平は彼女の悲願でもあったからだ。
指定された渓谷へ、ファナは少数の供だけを連れて赴いた。だが、そこに待ち構えていたのは、和平の使者ではなく、副官と結託した敵対部族の大軍勢だった。
罠だと気づいた時には、既に遅かった。
「なぜだ……! なぜ裏切った!!」
ファナの絶望的な叫びが、谷間に木霊する。副官は、嫉妬と欲望に歪んだ笑みを浮かべていた。
「お前が強すぎたのだ、ファナ。お前がいる限り、私は永遠に二番手のまま……。だが、これでお前も終わりだ!」
絶望的な状況下でも、ファナは最後まで戦った。しかし、数の暴力はあまりにも圧倒的だった。そして、ついに裏切り者の副官の凶刃が、彼女の右目を潰し、その勢いのまま左肩を深く切り裂いた。視界が赤く染まり、激痛と共に左腕の感覚が消える。
さらに、その刃には特殊な呪いが込められていたのか、傷口から黒い霧のようなものが体内に侵入し、彼女の誇りであった魔力回路をズタズタに侵食してしまった。
「ぐ……ぁ……っ!」
膝をつき、意識が遠のいていくファナ。彼女の最後の記憶は、自分を見下ろす副官の嘲笑と、勝ち誇った敵兵たちの姿だった。
そこで、ファナは死んだ――はずだった。しかし、ファナの生命力は尋常ではなかった。放置された彼女は、奇跡的に一命をとりとめたのだ。
だが、彼女に残されたものは、もはや何もなかった。族長の地位も、信頼していた仲間も、そして何よりも、アスカリ族としての戦闘能力も。右目と左腕の自由を失い、魔法も封じられた。力を失った者は、部族にいる資格はない。それがアスカリ族の掟。今のファナは、ただの役立たずであり、行くあてがなくなった。
それからの日々は、生き地獄そのものだった。麻痺した左腕は時折走る激痛にうめき、得意だった魔法も満足に扱えない。片方の視界しかない不自由さ。かつては羨望と畏敬の的だった彼女に向けられる、同情や侮蔑の視線。
何度も自ら命を絶とうとしたが、そのたびに、今は亡き両親の厳しくも優しい顔が脳裏をよぎり、踏みとどまってきた。
深い孤独と絶望に苛まれながら、彼女は各地を放浪した。そんな時、彼女は大陸の辺境に位置する、ミドリバ村という名の小さな村へと流れ着いた。
そこで、ついにファナの足はもつれ、彼女は地面へと崩れ落ちた。もはや、指一本動かす気力も残っていない。降り始めた冷たい雨が、彼女の体温と、そして最後の希望を奪っていく。
(……ここまで、か……。結局、私は……ここで――)
霞む視界の中で、ファナは静かに目を閉じようとした。その時だった。
「……君、その怪我どうしたんだい?」
穏やかな男性の声が、雨音を割って響いた。
ファナは、最後の力を振り絞って薄っすらと目を開ける。そこに立っていたのは、少し古びた白衣を着た優しい目をしている男だった。
男は、ファナのただならぬ様子と、隠しようもない傷跡、そして彼女が魔族であることに気づいたようだったが、驚きや恐怖を見せることなく、心配そうに屈み込んでいる。
ファナは何もいわず、放っておいてくれという気持ちとともにただ視線だけを返していた。
「酷い怪我だね……。すぐに治療しないと、手遅れになるよ」
それでも声をかけてきた彼に、ファナは小さくため息を返した。
「……怪我はもう治らん。放って、おいてくれ……」
「そんなことを言っちゃダメだ。まだ治癒士にも見てもらっていないんじゃないか? 俺はクリストフといってね。この村で治癒士をしているんだ。診療所まで運ぶから、少し我慢してくれ」
男は、ファナの返事を待つまでもなく、彼女の体を慎重に抱え上げた。
診療所はすぐそばにあり、ファナはそこへ運び込まれ、寝台へ横にされた。
「……私の体は、もう怪我をしてずいぶんと経つ。治療など、無駄だ」
すでに、高位の治癒士に見てもらったが、ファナの傷はこれ以上に回復しなかった。
表面上の傷は治ったとしても、どのみち魔力回路の治療は不可能だ。ファナが自嘲するように笑ったが、それを否定するように男はファナの体へと手を伸ばした。
「何をするつもりだ」
「治療をさせてくれないかな」
「だから無駄だと、私の体はもう――」
「助かるかもしれない命を前にして……それを無視することは、俺の治癒士としての信条に反する。それに、このくらいなら、俺の回復魔法でもなんとかなるさ」
「……助かる、だと?」
「ああ。だから、お願いだ。……治療をさせてくれないかな?」
クリストフの、感情を揺さぶる懇願にファナもすぐに断ることはできなかった。
治療費のことも頭をよぎるが、それ以上に、この男の目に宿る確かな光が、彼女の心に微かな揺らぎをもたらしていた。
だからこそ。
その生きようとする心を否定するように、ファナは口を開いた。
「……治療費は、払えんぞ。私にはもう、何も――」
「さっきも言ったが、お金なんていらないよ。俺はただ、君に生きてほしいだけだ。君が助かって、笑顔で生きてくれるのが、俺にとって一番の報酬だよ」
「……私はもう、笑ってなど生きられない」
ファナの自嘲するような言葉に、クリストフは静かにそれを見守っていたが、やがてゆっくりと口元を緩めた。
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