第10話


 彼女は二階へと続く広い階段を上り、一つの扉の前で足を止める。


「ここが、あなたのお部屋よ。どうぞ、入ってみて」


 シルヴィアに促され、クリストフがおそるおそる扉を開けると、そこには信じられないほど広く、そして趣味の良い調度品で整えられた部屋が広がっていた。大きな天蓋付きのベッド、書斎机、立派なソファセット、そして壁一面の本棚。窓の外には、手入れの行き届いた美しい庭園が見える。


「……ここが、俺の部屋……? シルヴィア、これ、本当に客間とかじゃなくて?」

「ええ、もちろんよ。あなたのための部屋だもの。あなたが、薬草畑を大事にしていたのを覚えているから、庭が見える部屋を選んでみたのだけど……気に入ってくれると、嬉しいわ。……一応、あそこの庭園の一画に畑も用意してあるわ。環境は変わるかもしれないけれど、薬草畑を作れるようにしているのよ」


 シルヴィアは、期待と不安が入り混じったような表情で、クリストフの顔を見つめる。


「ありがとう。……すごく立派な部屋で、正直慣れるまではかなりの時間がかかりそうだけどね」


 クリストフが素直な感想と感謝を伝えると、シルヴィアはぱあっと顔を輝かせた。


「まあ、そこはね。何か足りないものや、不自由なことがあったら、遠慮なく何でも言ってちょうだいね。使用人の方々に言ってもいいわ」

「了解。色々ありがとね」

「いえ、気にしなくていいわよ。あの時の治療費の代わりみたいなものよ」


 そう言って、シルヴィアは笑顔とともに去っていった。

 一人残されたクリストフは、豪華すぎる部屋の真ん中で改めて周囲を見回した。柔らかな絨毯、芸術品のような家具、そしてふかふかであることが一目でわかる天蓋付きのベッド。ミドリバ村の自分の診療所兼自宅の、年間の生活費すべて合わせても買えそうにない。


(これほどの待遇……やっぱり、シルヴィアは俺に相当期待してくれているんだろう。クランの専属治癒士として、これから多くの冒険者たちの命を救うことを……。昔、彼女を助けた恩義もあるのかもしれないけど、破格ではないだろうか? 村にしかいなかったから、世間の一般を知らないので何とも言えないが……)


 彼は自分の両手を見つめる。この手で、シルヴィアを救ったのは事実だ。しかし、それは彼女の言うように、彼女自身の生命力や運が良かっただけだと考えている。

 自分の回復魔法が、本当にこれほどの期待に応えられるとは思えなかった。

 ――少なくとも、昔。冒険者時代の自分の立場を知っていたからだ。


(……まあ、仕方ないか。できることをやっていこう。俺なりのやり方で、力になっていけばいいか)


 クリストフは、自分を奮い立たせるように立ち上がった。まずは、いつも通り、やるべきことをやろう、と。

 部屋の中央でゆっくりと目を閉じ、深く息を吸い込んだ。ミドリバ村で、毎日欠かさず行ってきた回復魔法の訓練を始めるためだ。


 自身の体内に流れる魔力に意識を集中する。絶えず体の中を巡っているその魔力を、ゆっくりと、しかし確実に右手のひらへと導いていく。

 純度を高め、密度を上げ、そして、それを「治癒」という明確な意志の形へと変えていく。

 魔法は不発に終わる。回復魔法を使う相手がいないためだが、それでいいと考えている。

 魔力は無駄に消費されても、魔法の発動の感覚を掴むための練習とはなるからだ。

 それを、魔力が少なくなるまで何度も繰り返す。魔力というのはゆっくりとではあるが自然に回復していくものだ。訓練をしている間にも魔力は回復していく。

 それからしばらくの時間が経ち、クリストフが訓練に没頭していると、控えめなノックの音と共に、扉がそっと、わずかに開いた。


「……クリストフさん? 今、大丈夫かしら?」


 扉の隙間から、シルヴィアが体を半分ほど隠すようにして、心配そうにこちらを覗き込んでいた。その姿は、先ほどよりもさらに緊張しているように見え、どこか小動物を思わせる。

 着替えてきたようで、外に出るための服から落ち着いたものになっている。


「シルヴィア。どうしたんだ?」


 クリストフは訓練を中断し、汗を拭いながら振り返る。突然の声に少し驚いたが、彼女の可愛らしい様子に、思わず頬が緩んだ。


「あ、あの……! ごめんなさい、起こしちゃった? 少し休んでいるかと思って……えっと、汗、かいてるみたいだけど……だ、大丈夫かしら?」


 シルヴィアは、クリストフの様子を見て目を丸くしている。魔法の訓練をしていたことに気づいたのか、その瞳にほんの少しの心配の色が浮かんだ。


「ああ、いや、大したことじゃないんだ。村にいた時から、こうして毎日、回復魔法の感覚を鈍らせないように、ちょっとした訓練をするのが日課でね。……まあ、効果があるのかは分からないけどね」

「……そうなのね。だからこそ、あの回復魔法に繋がっているのね」


 シルヴィアの眼差しは、先ほどよりもさらに熱っぽくなっているようにクリストフには感じられた。


「……でも、今日は長旅で疲れているんだから、あまり無理はしないでちょうだいね?」

「ありがとう。でも、大丈夫だよ。もう一日の流れ作業みたいなものでね。やっていないと落ち着かないくらいだから」


 クリストフは照れくさくなり頭を掻いた。

 シルヴィアは、すぐに部屋を出ていくことはなく、期待に満ちた瞳でクリストフを見つめた。


「……そうなのね。もし、迷惑でなければ……その訓練、少しだけ、見学させてもらってもいいかしら?」


 扉の隙間から完全に部屋へと入りながら、シルヴィアは少し上目遣いで尋ねる。その頬はほんのりと赤く染まっていた。


「ああ、別に構わないけど……。本当に、地味で見ていても退屈してしまうだろうけど」

「ううん、そんなことないわ! お願い」


 キラキラとした瞳で見つめられては、クリストフに断る術はない。彼は小さくため息をつきながらも、苦笑を浮かべて頷いた。


「……分かったよ。それじゃあ、続けるよ」

「ありがとう、楽しみにしているわ」


 シルヴィアは嬉しそうに微笑むと、彼の邪魔にならないように、部屋の隅にあるソファへと静かに腰を下ろした。

 真剣で熱のこもった視線でクリストフを見つめ始めた。

 誰かに見られながら回復魔法を使うのなんてほとんどなく、その視線に少しばかり居心地の悪さを感じながらも、クリストフは再び意識を集中する。

 彼は目を閉じ、体内の魔力の流れを掌握し、右手へと導く。


 一度集中してしまえば、雑念は消える。クリストフにとっては呼吸をするとの同じ、無意識に魔力を練り上げ、それを精密にコントロールしていった。


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