第12話 それは劇物
その夜のこと。
保健室に連行したテクトが、案の定保険医に拘束され緊急入院し、しかし怪我の程度は軽微だと判明した後。
ウィズは一人寝間着に着替えて、寝室のベッドで横になっていた。
ウィズは女なので、寮は相部屋だ。だからベッド付きのカーテンを閉めることで、プライバシーを守る。
そんな小さな暗闇の中で、ウィズは呟いた。
「テクト君……」
その名前が自分の口から出てくるだけで、ウィズは多幸感に包まれる。
「テクト君、テクト君テクト君テクト君……!」
だから、小声で繰り返す。何度も何度も、その名前を呼ぶ。
そうしていると、ウィズは思いの丈を堪えきれなくなる。
「―――好き」
一度口にしてしまえば、もう気持ちは止まらない。
「好き、大好きです。あなたみたいな人、きっとこの世に一人もいない。私なんかのために、命を懸けてくれる人は、一人も」
男なんてほとんどいないこの世界。
ここでは、女の命には価値などない。誰もが男を求める反動で、女など一山いくらという扱いになる。
そんな世の中では、女は男に逆らえない。男に逆らうようならば、そもそも他の女に引きずりおろされ男に近づくことも許されない。
だから女は、誰しも自らを偽る。自分を曲げ、隠し、したくもない恭順と奉仕でもって、やっと男の寵愛を引き出すのだ。
それが、テクトだけは、ありのままのウィズを大切にしてくれる。
「テクト君、ああ、テクト君……っ。私の天使、私の男神、私の、大切な人」
女とは結局、男の奴隷に過ぎないのだ。
だというのに、決定的に価値の違う男の子であるはずのテクトが、ウィズのために命を懸けてくれた。
その事実一つだけで、ウィズは十分だった。
「私が、守るから」
ウィズは、今まで『男に近づくことも許されない』立場の女だった。貴族ではあるが、ほとんどその最底辺。一山いくらの女の中でも、さらに価値のない者。
そんなウィズに救いの手を差し伸べたテクトの存在は、貧者に与えられる神の美食、渇きに苦しむ者に注がれる甘露がごとく。
「今はまだ、私、弱いけど。それでも、何があっても私が守るからね、テクト君。私の生涯のすべてを、あなたを守るために尽くさせてください」
ウィズの目が、愛に濁っていく。
ありうるはずもない男からの献身。飢えた女の脳が、灼かれずに済むはずもない。
取り立てて特筆すべき事ではなかった。ただ、テクトの『女の子を守る男になる』という戦略の効果が、遥かに過小評価されていただけのこと。
常人も賭け事にのめり込むように。
無垢な少女も男を知って色に狂うように。
誠実な者も麻薬を知れば渇望に身を焼くように。
女に尽くす男という概念が、この世界にとって劇物だっただけ。
「愛してます、テクト君……♡」
自らの愛に酔いながら、ウィズは静かにまどろんでいく。
入学初日の事件は、まだ人間関係が構築されきっていなかったこともあり、一部の者にのみ届いた。
「へぇ? オークの森で、ガーランド君が怪我をしたと?」
「うっ、うん、そうみたい。デルフィアさんが保健室まで連れて帰ってきたみたいだけど」
ナルシスに報告したクラスの少女の顔色は暗い。
たとえ騎士家の、結婚相手としては苦しい相手でも、テクトとて男は男だ。
クラスの女子からすれば、積極的に関わることはしなくとも、居てくれるだけでもありがたいし、怪我となれば心底心配になる。
だが、それは女子の都合。
ナルシスはその話を聞いて、まったく違うことを考えていた。
「その、デルフィアさんって、誰かな」
「え? あ、えと。私も話したことなくてね? 勉強が得意そうな子だったけど……」
「勉強が得意な子と、男子が、オークの森で怪我を、ねぇ……」
ナルシスは何某かを思案する。
それから、こう呟くのだ。
「僕のクラスで、僕ではなくガーランド君になびいた女子、か。……それは、気になってしまうね」
「なっ、ナルシス君?」
ナルシスの呟きに、露骨に慌てる女子。
それに、ナルシスは言った。
「君たち、デルフィアさんのことを調べておくように」
「う、うん! 調べておくね!」
「68点。もう少し返事は自然に。僕は、甘いものを食べに行こうかな。ご褒美待ちの子は誰?」
「はっ、はい! 今日は私です!」
「じゃあ、君と行こうか。君、可愛いね。名前は?」
「あ、えと。私は―――!」
ナルシスは、適当な女子を連れて歩き出す。
それを目で追いながら、女子たちは心中穏やかでないながら「デルフィアさん調べるの手伝うよ」「私も」と言葉を交わす。
ナルシスとテクト、ウィズの所属する下級14号クラスに、淀んだ空気が流れ始めていた。
ところ変わって、上級1号クラスのこと。
ここにも、遠いながら男子生徒の怪我の噂は届いていた。
多くの女子に囲まれて、ひときわ小柄な、金髪ツインテールの少女が瞠目する。
「……その、怪我した男子。名前もう一度言ってもらえる?」
「は、はい。その下級貴族クラスの男子の名前は、プロテクルス・ガーランドと言うそうです」
緊張気味に答えた少女に、小柄なツインテールの少女は、険しい顔になる。
眉間によったしわに手を当てて揉みほぐしながら、ポツリと呟く。
「テクト、アタシに挨拶するよりも前に、オークの森で大怪我とか何考えてるのよあいつ……!」
「あ、アイギス様? どうされました? 下級貴族クラスのことなんて気を揉まれて」
「いいわ、ありがとう。いえ、ちょっと縁のある名前でね。……ところで、その男子を連れ帰った女子の名前は何だったかしら?」
「そちらは、ウィズ・デルフィアという名前だったかと」
「……二つ名持ち血統の入学生名簿で見た気がするわ、その名前」
アイギスと呼ばれた少女は、心当たりを思い出して思案し、じわじわと感情をあふれさせる。
「ってことは~、ふぅん、へぇえ? 二つ名持ちの血統の女が? 男を怪我させて? おめおめ逃げ帰ってきて……その相手が、あまつさえアタシのテクトってこと?」
少女はそっと机に触れ―――力加減を間違えて、指で表面をえぐってしまう。
「ひっ」
「あ、やっちゃった。まぁいいわ。ともかく、その、男の子を盾にするようなクソ女には、学年主席としてご挨拶しないとね」
つまんだ机の切れ端の木片を、少女は指先の握力一つで粉々に砕く。
その顔には、貼り付けたような笑みが、不気味に浮かんでいた。
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祝! 一章完結!
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