第2話


子龍しりゅう殿!」


 廊下を駆けていた姜維きょういは前方にようやく趙雲ちょううんを見つけた。

 趙雲はすでに支度を整えていた。

 だが武具は身につけていない。腰に剣は佩いているが、普通に外出するという装いだ。

「ここにおられたんですね。探しました」

 趙雲は逡巡してから、姜維に向き直る。

「姜維。すまないが、しばらく白帝城はくていじょうの留守を預かってくれるか」

「それは構いませんが……趙雲将軍はどちらに行かれるのですか」


「無論、龐統ほうとう殿の所だ」


「もう開戦してしまっているのですよ。今から行った所で事態は収まりません」

「そんなことはない。呉が出陣を強行したのは【剄門山けいもんさん】にそん夫人が連れて来られているという誤報を信じてのことだ。

 それが無ければ、この戦は開戦することはなかった。

 つまり、戦わずともいい戦で兵が死ぬことになる。

 これは何としてでも止めなければならない」


 姜維は押し黙る。

 趙雲は歩き出し庭先に出て、愛馬の装備を確認した。


「お待ちください、趙雲将軍。すでに開戦してから時間が経っています。【剄門山】はもはや戦場となっているのですから、そんな軽装ではいけません」

「一刻を争うんだ」

「今更行って、呉軍が孫夫人は山頂にいないなどと、信じてくれると思いますか?」

「しかし……」

 趙雲は僅かに眉を寄せてから、ふと気づいた。目の前の青年を見下ろす。


「……姜維。まさかこの事態を収めないつもりか?」


「……。」

 姜維は腕を組んで見せる。

「開戦してしまったものは開戦してしまったものとして、利用するのも一つの手では。

 龐統の準備は抜かりがないようでしたし、案外呉軍江陵こうりょう方面軍の総大将呂蒙りょもうの首を取って来るやもしれません。

 今、呉軍は赤壁せきへき勝利の勢いに乗っています。

 呂蒙将軍の首を取れれば、これはしょくにとって大きいことになる。

 好機やもしれません。

 龐統から、救援要請などはないのでしょう。

 でしたら思う存分戦をさせてやればいいんですよ」


「この戦に大義は無い。

 もし、誠に孫夫人が龐統殿とおられるならば、打って出て来る呉軍の意志は分かるが、そうではないのだから」


「それに関しても、別に呉軍が近隣の村々に流れる人の噂を信じただけであって、こちらが偽りの情報を流して罠に懸けたわけではありません」

 姜維がそう言うと、趙雲の記憶にはっきりと以前龐統の幕舎を訪ねた時に、孫黎そんれいのことで龐統と言い争ったことが浮かび上がって来た。



――『この【剄門山】に孫黎を連行し、この場に首を斬るぞ!』



【剄門山】の陣内には多数の民兵も混ざっていたはずだ。

 彼らが村に戻り、噂を広めたのだ。

 趙雲は直感した。

 

(しかし……龐統殿は近隣の村の状況は細かく把握しておられたはずだ)


 呉軍の耳にも届くような噂であれば、当然彼も把握しているはずだった。

 そして呉軍に届けば、彼らが打って出て来る可能性が高くなるのは必然。


 あえて、火を消そうとしなかったのだ。


 あの時感じた龐士元ほうしげんの強く何かを想い定めたような佇まい、眼差し、全てを思い出して趙雲の脳裏に警鐘が鳴る。


「子龍殿?」


 考え込んでいたような趙雲が、すぐにどこかへ身を翻した。

 姜維は付いていく。

 現われた趙雲と姜維の姿に二人の衛兵がすぐにびしりと敬礼を行う。


 そう――その部隊というものは、その部隊を率いる武将の性格が現われるものだ。


 粗暴な指揮官の隊は粗暴になるし、規律を重んじる指揮官の隊は自然と規律を重んじるようになる。

 同じ隊だとしても、指揮官がすげ替えられるだけで隊の雰囲気がガラリと変わることがある。

 龐統は、白帝城に着任をしてからここではほとんどまともに公務もこなしていなかったというのに、それにしては白帝城の兵の規律は下手に乱れたりはしていない。緊張を以て、任務についているという印象だ。


 それは【剄門山】に展開中の手勢にも言えた。

 龐統はまともにここの兵に調練など行っていないというのに、あの男は一月で白帝城の守備部隊を、自分の手足のように動くよう変えてしまった。

 彼らはこの一月あまりの龐統の豹変を敏感に感じ取っているのだ。


 開かれた扉から入ると、いつものように部屋の隅にある寝台の上で膝を抱えて顔を伏せていた女が、ゆっくりと顔を上げた。

 彼女だけはこの地で、周囲の喧騒から切り離された生活を送っていた。

 決まった時間に持って来られる食事以外にこの扉が開くことはないので、不審に思ったのだろう。


 孫黎はゆっくりと趙雲の顔を見て、それから一瞬だけ碧の瞳を驚いたようにして見せた。

 しかしすぐに瞳を伏せる。

 いずれ、この男が自分を呼びに来ることは分かっていた。

 心を定めていたのだ。

 趙雲の表情にいつにない緊張があることに、孫黎は何かを心に決め、何かを諦めたようだった。


「やっと決まったのね」


 趙雲はやって来ると、孫黎の手首を掴んだ。

「……なに?」

 不躾だと思ったのか、少しだけ彼女が剣呑な表情で趙雲を見上げる。

「孫黎殿。申し訳ないがしばし私と共に来ていただきたい。貴方の御助力が必要なのです」


「趙雲将軍!」


 姜維がいつになく、厳しい声を趙雲に掛けた。

「彼女の監視権は白帝城駐留部隊の総指揮官である龐士元にあるはず。

 その許可を得ず、虜囚を連れ出すのは、軍規に背く行いですよ」

 趙雲は孫黎を寝台から下ろすと、構わずそのまま外へ出た。

 彼女は思い切り、戸惑っている。

「なに……⁉ なんなのよ!」

「話は道中説明します」

「彼女をどうするおつもりですか、趙雲将軍!」

「なんとか彼女を呉軍に引き合わせ、呉軍に撤退してもらう」


 孫黎は驚いた顔をした。

 趙雲が足早に歩きながらも、強い瞳で彼女を見据える。


「ここから東に向かった所にある【剄門山】という場所に今、我が軍の龐統将軍が陣を敷いているのですが、今朝方、その山に呉軍の江陵方面軍が攻め込んだという知らせが入ったのです」


 バシッ、と孫黎は自分の手首を掴む趙雲の手を振り払った。

「ふざけないで! 私は蜀の虜囚になっているのよ! 戦場になど行かない!」

「此度の戦は止めなければ」

「何故よ! 呉蜀同盟が決裂した時から、呉とは争いになることを、貴方たちだって分かっていたんでしょ⁉ 

 私を虜囚に取った所で呉軍は蜀への攻め手をやめたりしないと私は言ったはずよ!

 それを……」


「彼らは今回【剄門山】に貴方が幽閉されて、処刑間近であるという噂を信じて開戦したのです」


「えっ⁉」

 怒りを露わにしていた孫黎は驚いた。

 自分はここにいるのに、何故そんな噂になっているのか分からなかったからだ。


「貴方にはお分かりにならないかもしれませんが、

 今三国の情勢は、非常に複雑なものになっています。

 強大だった曹魏そうぎが赤壁で大敗し、呉蜀同盟は決裂。

 呉は勝者になったとはいえ、首脳部に大きな犠牲を出した。

 次の戦には慎重になっているはず。

 今は三国が互いに睨み合いながらも、余計な衝突を避けるべき時です。

 なのに打って出て来た。

 ですから、この戦いは避けられるのです。

 理解していただけますか」


 孫黎は趙雲の顔を見た。

 彼は黄玉の、強い澄んだ瞳で彼女を見据えて来る。

 彼女は迷いながらも、小さく頷いた。


 外に出る。

 すでに馬車が用意されていた。


「さぁ、手を」


 恐る恐る差し出された手に重ねようとした時、孫黎の顎の側に抜身の剣がひやり、と近づいた。


「!」


 姜維が剣を抜き、趙雲を見据えている。

「趙雲将軍。いけません。貴方と言えども独断で虜囚を連れ出すことは許されていない。

 孫黎は孫家の血を引くのです。

 戦場で彼女を見つければ、呉軍は奪いに走るはず。

 貴方は彼女を連れて行けば呉軍は争いを止めると思っている。それは軽率です」


「江陵軍総大将の呂蒙将軍は、周公瑾しゅうこうきんに師事を受け、義を重んじ、

 敵にも情けを懸ける方だと聞いた。

 今回のことが誤報だと分かれば、必ず撤退してくださると思う」


「撤退しなかったら」


 姜維は切りつけるように問い返す。


「赤壁で蜀軍の誰が、周公瑾の裏切りを予想していましたか!

 陸遜りくそんが、孔明こうめい先生の命を狙うことを! 

 魏延ぎえん将軍とて、呉の犯意を見越して孫策そんさく将軍に斬りかかったのではないのです」


「姜維。お前の話はあとで聞く」

「いいえ! 今、聞いて下さい!」


 姜維は孫黎の身体を引っ張り、邪魔そうに自分の後ろへと押しやると、

 自分が進み出て今度は余程はっきりと、趙雲に対して剣の切っ先を向けた。


「何故、呉が誠実であると最初から考えてしまうのですか。

 彼らは噂の真偽などどうでもいいかもしれない! 

 彼らこそ攻め込む理由を欲していたのかもしれない。

 龐統は呉軍にとって裏切者です。

 あの男が孔明先生を守った為、赤壁では、呉は【臥龍がりゅう】を仕損じた。

 孫黎の存在など、呉でとうにどうでもいいものだったら⁉

 江陵軍がただひたすらに、ここで【鳳雛ほうすう】は討ち取るべきと思い定めて出て来ていたら!

 貴方のしようとしていることは全て無駄になります!」


 姜維はもう一歩、進み出た。

 趙雲の喉元に、剣先が近づく。

 戯れだろうと味方に剣など決して向けない青年だったが、今は向けた。

 それくらい彼は真剣だった。


「呉は死に物狂いで龐統の首を狙い、その首を、亡き周公瑾と孫伯符そんはくふの墓前に捧げる気概で攻め込んで来ていたら!

 ここで、龐統と貴方を死なせるような愚かを、

 成都せいとにおられる諸葛孔明しょかつこうめい殿がお許しになるはずがありません!

 ここは順を踏んで、龐統将軍に虜囚を動かす許可を要請してください。

 許可が下りれば、それは貴方の好きなようになさればいい」


「一刻一刻、死ななくてもいい兵が死んでいくんだ。姜維。

 私には今やれることがある」


 言って、がしりと趙雲は自分に向けられた姜維の剣を手で掴んだ。

 今は小手も何の装備もない、素手のままだ。


「もしこのことで龐統将軍や殿が、私の為したことに処罰を求められるなら、私はそれを全て受けよう。だから今は行かせてくれ」


 姜維は抜身の剣を趙雲が掴んだことに驚いた表情を一瞬浮かべたが、すぐに険しい表情を作る。


「いけません。そういう問題ではないのです。

 貴方は自分に与えられる処罰など全く恐れない。

 それでは何の意味もないのですよ。趙雲将軍。

 貴方はご自分の直感に、何よりも自信を持っていらっしゃる。

 でもそれが、外れた時。

 貴方は全てを失ってしまう!

 趙雲将軍! ここは私に任せて、成都に戻って下さい!

 私がここに来たのは綺麗ごとでは済まなくなるこの戦線に、貴方という人を置いておきたくないからなのです!

 龐統のことも、孫黎のことも……人には適材適所というものがある!」


 僅かに震えた剣の震動だけでも、強く剣を握った趙雲の手のどこかが切れたのだろう。

 小さな赤い粒が剣の背を少し走ってから、足元に落ちた。


「子龍どの……!」


 その時、初めて姜維の表情が歪んだ。


「子龍殿、貴方は、私にとって孔明先生と同じ場所におられる方なのです。

 蜀を正しい、明るい場所に必ず導いて行って下さると信じれる方。

 蜀にも優秀な人材はたくさんいますが――私自身が心から信じれるのは、貴方と孔明先生のただお二人だけ!

 龐統も孫黎も闇です! 

 闇の事情には、貴方が関わってほしくないのです!」


 自分を闇、と言われて孫黎は息を呑んだ。


「姜維……」

「お願いですから、どうか私に、……貴方を斬らせないで下さい!」


 趙雲は姜維を見下ろし押し黙ったが、静かに目を閉じた。


「…………ありがとう」


 姜維が趙雲を見る。

 彼も姜維をもう一度見つめて来た。穏やかな、澄んだ眼差しを向けて来る。


「お前がそういう風に考え、殿の為に平穏を投げ打ち、

 蜀へやって来られた諸葛孔明殿の為に、

 避けられないものは彼と痛みを分かち合い、

 避けられるものならば、彼ではなく、

 手を汚す仕事は自分がやろうと、そう思っていることはよく分かっている」


 姜維の瞳が揺れた。


「本当のお前が正しさや優しさに焦がれ、

 誰よりもそういう風に生きたいと願う青年であることも。

 国への覚悟と使命感がお前を強くさせていることも、知ってる」


「……。」

「私とは違う」

「子龍どの……」


「私は殿が望まれることを成したいのだ。姜維。

 殿がもし非情や犠牲を望まれるのなら、私は多分、そう出来る」


 姜維は驚いた。

 趙雲が、そんなことを言うとは思わなかったからだ。


「正しいとは思えなくても、闇の道に踏み込むことになると分かっても、きっと出来る。

 玄徳げんとく殿が私の目を見て、頼む子龍とそんな風に願って下さるならば。

 今回の戦は龐統が望んでも呉が望んでも、玄徳殿が望んでおられない。

 そう思うから止めたいのだ。」


 真っ直ぐに見据えて来る。


「それでもこの趙子龍ちょうしりゅうを斬るか。姜伯約きょうはくやく


 趙雲がずいと一歩踏み出したので、また赤い血が地に零れた。


「私はお前の正しさをどこまでも信じている。

 お前の信念で今、私を止めたいのなら、この喉を突くといい。

 私は押し通っても行く」


 姜維は一度奥歯を噛むような表情をして、必死に自分の内から戦気を引きずり出そうと試みたようだが、不意にその顔面が崩れた。


「手を放して下さい、子龍どの……!」


 姜維から先に、柄から手を離す。

 彼は膝から崩れた。

 趙雲が姜維の剣を脇に放り投げる。

 彼はそのまま孫黎へ、血の付いていない方の手を差し出した。


「さぁ、お早く!」


 孫黎が頷き、打たれたように趙雲の手を取った。

 彼は馬車に彼女を抱え上げるようにして乗せると、自分も乗り込んだ。

 すぐに馬車が走り出す。


「戦場が近くなったらとにかく私が呉陣に近づき、接触を試みます。

 貴方は離れた場所にいて、呉軍の指揮官が姿を見せたらお呼びしますので、それまではここで待機していてください」


「……、江陵軍を率いているのは呂蒙なの……?」


「はい。それに建業けんぎょうを出立した軍勢には甘寧かんねい将軍、淩統りょうとう将軍のお姿もあったそうです。

 いずれも赤壁せきへきでも、名高い戦功を挙げられた御仁ですね」


 甘寧に淩統。


 間違い無く、呉軍の主力だ。

 決して江陵の守備を少し強化しようなどという時に送られて来る部隊ではない。


「呉の狙いはなんなの……?」


 孫黎には、もはやそれは分からなくなってしまった。


「蜀に対して孫策そんさく殿、周瑜しゅうゆ殿を失っても、呉は攻勢を崩さないという姿勢を示すためでしょう。江陵軍の陣容には陸伯言りくはくげんの姿もあったようです」


「陸遜まで……」


 趙雲は自分の切れた右手に布を巻いて、止血をすると、腰の剣を外しながら言った。

「貴方にやっていただきたいことがもう一つあります」

「……なに?」

 聞き返した孫黎の腰に、自分の剣を巻きつけた。


「とにかく、私はこの戦闘を止める。

 すでに戦場は開戦しており、仮に呂蒙将軍が撤退命令を出したところで、戦場はかなり混乱が起こるでしょう。

 機を見て私が貴方を逃がすので、貴方はそのまま呉軍と合流をしてください。

 蜀兵から攻撃が行われる可能性が無いわけではない。くれぐれも用心を。

 無論……出来る限りそれは私が食い留めますが、全て思いのままというわけには行きません」


 孫黎は驚いて趙雲の顔を見た。


「なにを言って……、」

「私は武人です。武人は戦場で冗談は口には致しません。

 よろしいか。この機会を失えば、貴方は二度と母国の地を踏めぬと思って下さい」

「………それは貴方の、独断なの……?」

「……。」

 押し黙った横顔を見せた趙雲に、孫黎は顔色を変えた。

「……玄徳さま……?」

「……。」

「お願い。趙雲将軍。本当のことを教えて」

 孫黎が趙雲の腕を両腕で掴んだ。

 それは、最後の希望に縋りつくような手にも見えた。

 事実、孫黎は縋ったのである。


 誰が何と言おうと、今の世を動かしているのは男だ。

 女は、男の意のままになるか、男の善意を信じるしか出来ない。

 孫黎には、魏の甄宓のような生き方は出来ないのだ。

 夫が望むならば、もろとも喜んで全ての血も泥も憎しみも飲んでみせるという強さは、彼女にはない。



(わたしには、信じることしか出来ないから)



 孫黎は趙子龍に縋った。

 ここまで来れば、蜀軍に最も仁義に厚いと謳われるこの男が今隣にいることさえ、孫黎に劉備を今一度、信じたいと思わせる理由になっていた。

 

「お願いよ……! 

 私は、真実を知らずにいて、ずっと周瑜のことを恨んでいた……。

 私なんかよりずっと国の為に生き、尽くした人間に、亡くなったと分かるまで心の中で罵詈雑言を浴びせてた……!

 その惨めさが、貴方に分かる⁉

 何も分からないのはもう嫌だ。

 分からないまま、自分が愚かな人間になって行くのは。

 大切に思うものを、大切でいたいし、

 世がどんな風に変わったとしても、大切なものだけは変わらない自分でいたい!」


 だからどうか本当のことを教えて。


 趙雲の腕が孫黎の零した涙で濡れる。

 彼女は嗚咽を漏らした。


「……。劉備りゅうび様は貴方はまだお若く、自分との結婚生活もごく短いものであったから、このまま蜀に置いて、命を縮めるようなことがあっては哀れだと」


 孫黎の碧の瞳が大きく見開き、趙雲を見上げた。


「呉蜀同盟は決裂してしまったが先の大戦で、周瑜将軍が体現なされたお姿に、国を守る者としての強い覚悟を教えられたとも仰っていました。

 敵となった自分でさえそれを感じたのだから、さすれば決して呉は、貴方を返せとは二度と繰り返せぬだろうと。

 例えどれだけ望んでも。

 ……ですから……、貴方のことだけは自分が、自分からお返しする。

 赤壁に命を尽くされた周公瑾殿だけには、貴女をお返ししようと仰いました」


 孫黎の手が、趙雲から離れる。


「ですから貴方はもう自分を責めずとも良いのです。黎姫。

 元より、誰も貴方を責めてはいない」


 彼女の目から次々と涙が零れた。


「……周瑜……」


 幼い頃から顔を見知った、長兄の親友の顔を思い起こす。

 もう国に戻っても、会うことは二度と出来ない。

 ありがとうも、

 ごめんなさいも、

 もう彼には伝えられないのだ。


 ――――自分は女で、


 女は、この世では本当に、男の優しさで守られている。


 例えそれが目に見えない時があっても、生きている限り、こちらに心を向けてくれている、色んな男達の優しさで確かに自分は守られていたのだ。

 孫黎はそれを感じた。


 

『周公瑾にはお返しする』



 退くことなく戦い続けた彼が、動かしてくれたもの。

 敵となった情けを掛けなくてもいい者に、心を震わせて、情けを掛けてくれたかつての夫も。


「……玄徳さま……」


 もう二度と会えない二人の男の優しさを感じて、彼女は涙を溢れさせた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る