花天月地【第7話 星許の盤上】

七海ポルカ

第1話



剄門山けいもんさん】は遠目には草原にぽつりと現われた小高い山に見えるが、斜面は急で中は想像以上に入り組んでいた。


 夜明けと同時に攻略に取り掛かったのに、入った瞬間から断続的に蜀軍の伏兵急襲を受け、それを回避したり迎撃したりしているうちにどんどん時間が経過して行く。

 深い森のある地点でたまたま樹々の切れ目があり、外界を見ることが出来たが、費やした時間ほど高度は全く上がっていない。

 上り口は八本あったが、内部では木の板などや柵で道を迂回させられたりもして、すでに攻略開始から数時間経ち、頭の中に叩き込んだ内部図も、意味のないものになりつつあった。

 方向感覚も段々と麻痺して来る。

 それでいて、自分が今どのあたりにいるのかを落ち着いて把握しようにも、立ち止まり間をあけば、すぐに射かけられて来た。



 ――ピィ!



 鋭い口笛が飛んだ。


 すぐに樹の幹に身を隠す。

 足元にビシッ、と矢が突き立った。

 細い山道を挟んで向かい側で、同じように樹の幹に身体を隠した淩公績りょうこうせきが斜面の上の方を窺い、こちらに向けて指を四本立てて見せた。

 陸遜りくそんは頷く。

 凌統が弓を側に置き、腰の剣を引き抜く。

 後方にいる部下に待機しろという指示を身振りで伝える。

 歩兵が下がり、数人いる弓兵が矢をつがえて身構えた。

 淩統りょうとうが見計らい、身を低くして、動き出す。

 

「私も動きます。仕損じた敵はこちらに追い立てるので、お願いします」


 側で身構えていた虞翻ぐほんが強い瞳で頷いた。

 今回の戦で平時文官として働いているのに、従軍しているのはこの虞仲翔ぐちゅうしょうだけだったがさすがに、戦慣れしている兵でも苦痛を感じるような伏兵戦だというのに、彼は未だに集中力を切らせたような表情は一度も見せていない。

 意志の強い男なのだ。

 赤壁せきへき後、彼を副官として自分の側に置くようになった陸遜は、すぐにそのことは理解した。


 陸遜は上空を見上げた。

 そこは陽射しが射しこんでいる。


 手にしていた【銀麗剣ぎんれいけん】を構え、樹の陰からそっと半身を見せると、直後に胸の側を矢がすり抜ける。

 

 ジャキッ!


 反れた矢が地面に突き立つと同時に【銀麗剣】の刃を回すと、鋭く一瞬空の光を弾いた。


 陸遜が樹の陰から飛び出して駆け出す。

 飛んで来た矢の角度から、おおよその敵の方向は判断出来た。

 迷いなくそちらに踏み出すと、眩んだ目を覆うようによろめく、敵の姿が見える。

 

「ハッ!」


 陸遜は地面を強く蹴って斜面を駆け上がり、敵の首元を刃で一閃した。

 前方で悲鳴があがる。

 淩統がまた敵を一人斬り伏せた。


 ――シュッ……


 神経に触れるような音が耳を突けば、体が自然と動いていた。

 何故そちらに飛び込んでいけるのかなど、問われても答えは出ない。


 この『感覚』がいつ、自分の中に芽吹いたのかは分からない。

 剣は蘇州そしゅうにいた頃型を習うなどはしたものの、それ以後は時間のある時に剣を振るって、我流で双剣を会得した。

 少年時代、陸遜は自分の剣で相手を負かした時よりも、自分が負けた時の剣にこだわった。

 自分が打ち負かせた相手には興味はなかった。

 あの頃は自分自身の存在理由に強い不安を持っていたので、自分を脅かす存在を強く警戒する気持ちがあったからだ。

 自分を打ち負かした相手の動作や行いを幾度も頭に思い起こし、頭も体も納得するまで次は必ず勝てると自分が思えるまで、脳内で繰り返し相手を打ち倒す。


 しかし、自分に負け続けてもいいのかと強く問い質す様なこのやり方を、容認出来るほど自分が強くないと理解してからはやり方を変えた。

 陸績りくせきを傷つけかけた頃だ。


 自分の中の醜いものを自覚した時、陸遜は別のものになりたいと望んだ。


 自分より弱い者を守り、慈しみ、感謝を返される、そういう生き方を心掛けたのだ。

 陸家は自分にとって安息の地では無かったから、誰かに感謝されて、貴方は優しい人だとそう言われなければ、自分の中にも善意があるのだと、そう信じて生きていけないと思ったから。


 建業けんぎょうに召喚されると、陸遜の小手先の剣技などでは太刀打ち出来ない相手というものが数えきれないほどいたから、陸遜は逆に闘争心も掻き立てられる気にならず、自分の剣の腕など大したこと無いのだと、尚更そこから一から自分の剣技を見直すいい機会になった。


 そういう自分が戦場で打ち負かされることもなく生き残って来たのは、本当に幸運のもたらすだけのものだと、ふとした瞬間に思うことすらある。


 お前には剣の才があると褒めてもらうこともあるのだが、その判断は陸遜にはつかなかった。


 斬られて、或いは撃たれて死ぬなど、一瞬のことだ。

 今まで死ななかっただけだ。

 いつか甘寧かんねいが言った言葉を、忘れないように心掛けている。


 ――だが、確かにいつもはどちらかというと理論的に剣を振るう陸遜が、不意に感覚で戦場を駆ることがあった。


 

(この、感覚……!)



 耳元を矢が掠めて飛んで行く。

 放った相手は飛んだ矢に向かって飛び込んで来た陸遜に狼狽した表情を浮かべた。

 慌てて矢を番えた弓を、横に斬り払った【銀麗】が真っ二つにする。

 見据えた瞳。

 怯えた目に、胸を突こうとした愛剣の切っ先をずらした。

 敵の肩口を、浅く斬り裂く。

 

「うあ……!」


 敵が後ろに倒れ込む。


 あと一人。

 探そうとした瞬間、


「後ろです!」


 放つような虞翻の声が響き、陸遜が鮮やかに身を返して【銀麗】を閃かせたのと、陸遜の背後を狙った敵の首に淩統の狙い澄ました鏢が突き立つのは同時だった。

 悲鳴を上げる間もなく敵は絶命し、地面に倒れ込んだ。


 すぐに虞翻たちが駆け上がって来て、陸遜の側を固め周囲を警戒する。

 双剣を操り、戦場を縦横無尽に駆る陸遜の場合、側を護衛が固めた方が双方にとっても危ないのである。


 一瞬の静寂。

 陸遜が息を付き、剣を振るって血を落とし、小手に滑らせて拭った。


「助かりました、仲翔殿。――淩統殿」

「いえ……」


 淩統が戻って来る。尻もちをついて、倒れている敵兵を見下ろした。

「この陣について、何か情報を持っているかもしれません。尋問を行ってみるといいでしょう」

 淩統が頷き、自分の部下に目配せをする。

 陸遜がそう言うからには、喋る気配をこの男が見せたのだろう。


「ようやく中腹が見えて来たというところですかね……」


 敵の首から鏢を抜き取り、回収してから、淩統は小さく息を付いた。

「ええ……」

 重苦しい空気が漂う。

 出来るだけ犠牲を出さないように慎重に進んでいる為、味方の軍には大きな被害は出ていない。

 だがおかげで行軍は長引いていた。

 

(陽が落ちるまでに中腹に至ればいい。そういう予定だった。まだ焦ることは無い)


 陸遜はまだ陽射しの見える、高い空を見上げた。

 

「さぁ、行きましょう!」


 出来得る限りの明るい声で、虞翻と淩統の二人と、十五人編成の残りの仲間を振り返る。

 淩統は目を瞬かせたが、すぐに強い笑みを浮かべて頷いた。

 しばらく隊列を組むと目の前の樹間に木の板が張り巡らされて、迂回するしかなかった。

 淩統が忌々しそうにドン、と軽く木の板を叩く。

「いいようにされてるな……随分迂回している気がする。今は山のどのあたりになんだろう」

「……すみません。私は完全に見失いました」

 ある程度は把握しているつもりだが、伏兵が張り巡らされているこの相手の陣内で慢心は禁物だ。陸遜は敢えて、そう言った。

「気にしないで下さい。俺も同じようなものです。行軍するだけならば覚えておけますが、こう方々から襲い掛かられては方向感覚も失う。随分東に寄らされているのかな?」


「――いえ。先ほどしばらく西への道を迂回して来ましたから、思うほど東に寄れては無いとは思われます」

 

 虞翻が言った。

 先行していた山越さんえつ兵が二人、戻って来る。

 彼らがいなければ完全に進むべき道を失っていただろう。


「この先にもう一つ迂回道があります。上り口からはあまり外れていないでしょう」

「そうですか……」


 先を歩んでいた二人が立ち止まる。陸遜には何の変哲もない山道に見えたが、山越兵は何かを感じたらしい。

 彼らは元々、孫策そんさく江東こうとうに進出して来た頃は南の山岳地帯で、呉軍に対して攻撃を仕掛けて来る側だった。

 だから山岳地帯に慣れているというだけではなく、山岳地帯のどこに罠や伏兵を仕掛ければ効果的であるか、そういったことが分かるのだ。


 自分の腰に挿してあった短剣を取り、一人が木の根の盛り上がったそこへ放った。

 すると重みに反応し、竹で作られた仕掛けがザン! と作動して側の樹の幹に深く突き刺さる。

 至る所に、こうした仕掛けがある。

「数日前の探索よりも、更に仕掛けが増えています」

「撃破した敵の数は?」

「先程の者を入れて、三十一人になりました。

 こちらの被害は負傷者五名ですがいずれも重傷には至っておりません」


「淩将軍」


 部下が下から上がって来る。

「どうした」

「先程捕らえた者ですが、蜀軍の者ではありませんでした」

「蜀軍の者ではない?」

「はい。近隣の村の者で一月ほど前、村に蜀軍の使者が訪れ山岳戦の従軍者を募ったそうです」

「しかし民兵などではろくに戦えないだろう」

「いえ。蜀軍からは、山中に罠を張るための人材を集められたとか」

「この山には、動物を仕留める為の罠が随所に仕掛けてあります。無論、軍略的なものもありますが」

 山越兵は今作動した竹の罠に手で触れた。

「この罠も我々の村落では、よく村の作物を荒らしに降りて来る熊などの害獣を仕留める為に作るものです」


 陸遜は額を押さえる。

「それで龐統は成都せいとからの増援も使わず、こうも短時間で【剄門山】に陣容を整えられたのか……」

 民兵、は考えつかなかったことだ。

 長坂ちょうはんの戦いで劉備は一度、民兵の群れを引き連れたまま逃げて曹操そうそう軍から逃げ切ったことがある。


 無論、劉備がそうせよと命じたわけではないのかもしれない。

【徳の将軍】と呼ばれる彼を慕って、曹魏の侵攻を恐れた民が勝手に押し寄せ共に逃げようとした。

 だが、以前の劉備ならばそのまま逃亡を強行するようなことは無かったはずだ。

 陸遜の脳裏に、諸葛孔明しょかつこうめいの穏やかな瞳が蘇る。


(わたしはまだ、あの人を信じている)


 あの人が喜んで民に犠牲を求めるような人ではないと信じている。

 だが喜んで犠牲にしようが、悲しんで犠牲にしようが、あの戦いで劉備が多くの民を死なせたことは事実なのだ。



『事実だけに目を向けろ。さすればそれが、全ての答えだ』



 不意に昨夜聞いた龐統ほうとうの言葉が蘇った。


(国に仕える軍師というものは、ただ穏やかな心だけでは戦ってはいけない)


 自分も分かっているはずだ。

 非情にならなければならない時もある。

 例え人の道に背いてでも。

 手は汚れるだろう。

 だがそうすることによって、魂まで汚れるかは分からないのだ。


 赤壁せきへき黄蓋こうがいに虚構の水軍を率いさせた周瑜しゅうゆの姿を思い出した。


 軍議で自軍の武官、文官からも糾弾されながらも、全ては孫呉の負けられぬ一戦の為だと強く主張した彼を。

 そうしたとしても周瑜の魂は、少しも汚れてはいない。

 陸遜は剣を持つ手を握り締めた。

 

(今の劉備は、場合によっては民にも戦うことを求めるのだ。痛みを)


 そう念頭に置いておかねば、今回のように必ず【徳の将軍】という二つ名に出し抜かれる。

「どれほどの民が参戦したか、その規模は不明なのですね?」

「はい。ですが、男の口ぶりでは数名という感じではないようでした。

 近隣の村々から募ったと言っていましたから……」

「となると、我々は本陣は伏兵に【白帝城はくていじょう】からの兵が使われていると読んでいましたが、仕掛けを作動させるのは兵である必要はない。

 先ほどのように戦闘に加わる民兵がいるということは、思ったよりも敵本陣に兵力が温存されてる可能性がありますね……」



 ドオン!



 左手の方から何かが炸裂するような音と、僅かな震動が地を伝って来た。

 左手の山道からは、甘寧を部隊長とする手勢が攻略中なのだ。

 崩落するような凄まじい音が響く。

 全員が思わず身構えた。

 樹々が震えている。

 数秒間、崩落音と震動が続いた。


「……止んだ……」


逆落さかおとしの計は事前に見抜いて通達しておきましたから、巻き込まれてはいないと思われますが……」

 山越兵が厳しい表情で、そちらの方を見ている。

 彼らは行軍を助ける為に精神を削って奮戦してくれている。

 だが、予想以上に消耗が激しい。

 陸遜はそう思った。


『これは敵を本陣までに殲滅する為の陣』


 それは、精神を砕くことも加えてのことだ。

 新兵など、この長時間の緊迫した伏兵戦には耐え切れず、逃げ出していただろう。


(【鳳雛ほうすう】――あなたの望みはなんだ)


 赤壁で勝利を得て勢いづく呉の、周瑜に指名された後継者を屠り勢いを削ぐこと。

 最も考えられるのはそれだが、本当にそれだけだろうか?


 ピィ!


 また鋭い口笛が飛んだ。

 側にいた二名の山越兵が同時に樹の上に駆け上がる。

 彼らは口笛や鳥に模した鳴き声で、仲間と連絡を取り合うことが出来る。


「南から十人規模の伏兵がこちらに向かって来ているそうです!」

「まだ残っていたか……」


 陸遜たちはすぐに、今上がって来た方を振り返り身構える。

「今の崩落音が合図だったのかもしれません。我々が二軍同時攻略していることも、敵はよく把握しているようです」

「元々、計略の掛かっていない山道は二本でしたからね」

「言うな。虞翻ぐほん。まんまと奴の望むようなやり方で攻めてやってる気になって来る」

 淩統が舌打ちをして、額に浮かぶ汗を拭った。


「民兵か軍兵か判断できるか!」


 陸遜が尋ねるともう一度頭上でやり取りがあり、しばらくして「軍兵のようです!」と声が返った。

「計略が作動した時に反応するように動いているのがどうやら軍兵のようです。民兵は遊撃部隊なのでしょう」

「いかがいたします」

「……。民兵の存在は我々は把握していない。麓の呂蒙殿にもお伝えしたいが……」

 頭上で独特な鳴き声が響いた。


「陸軍師! 西の部隊から連絡が。今の崩落に巻き込まれた者はおらず、無事なようです」


 連絡を寄越したのは甘寧だろう。

 さすがに、こちらの動揺を察するのが早い。

「このまま、中腹まで一気に進軍するとのこと」

 安堵の空気が流れる。

「さすがに図太いなあいつは」

 呆れるように淩統が呟いた。

 陸遜も一瞬表情をやわらげ、笑ってしまった。


(こんな時でも私を笑わせる――あのひとはすごい)


 きっと先頭に立って、この斜面を登っているのだろう。

 いつもと同じ、鈴の音を響かせて。


 陸遜は以前甘寧に何故、戦場で鈴をつけるのかと尋ねたことがある。


『川賊の頭目やってた頃は、敵と遭遇するのは容易かった。

 船に乗ってるからな。

 まぁ中には身を隠して、商船に近づいて荷を奪うみたいな奴らもいるけど、それは俺らとは系統が違う』


 確かにそうだ。船に乗っていれば、水の上では身を隠すも何もない。

 敵を水上で見つければ、あとは船の舳先をぶつけ合って戦うだけだ。


『俺らは略奪は全部陸で行った。

 ただ、全て力ずくってわけじゃねえ。

 水上戦で名を挙げて、陸に上がれば、俺達が【錦帆賊きんぱんぞく】だと分かるだけで、気の弱い商人や領主は、俺達が街に入れば略奪を恐れて屋敷から逃げていく』

『自らを顕示すれば、余計な争いを避けれるから?』

『おう。陸の雑魚を何人斬ったって何の足しにもなんねえからな。それに面倒臭い。

 金目のものが手に入れば、要は俺達はいいんだからよ』

 甘寧は賊であるというのに、隠れることを必要としないやり方でこの世を渡って来た。


『でも甘寧どの……それでは黄祖こうその食客をしていた頃や、今の呉軍では、鈴は不必要な道理になるのでは?』


 軍では甘寧は奇襲部隊や野戦など、様々な役割を任せられる。

 首を小さく掲げて見せた陸遜を、彼は目を細めて笑って見せた。

 身を起こして大きな手で陸遜の頭を撫でて来る。

 子供扱い以外の何物でもないような仕草だったが、

 何故か甘寧にされると、腹も立たない。


『食客になろうが将軍になろうが、俺は俺のやり方を変えたりしねえ』


 奇襲だろうと隠密行動だろうと、俊足を以てこなせば相手に先手は取られることは無い。

 

『鈴の音を聞いて、そこに甘寧がいることが分かって、敵が震え上がるっていうのがイイ』


 などと不敵に笑って見せる。

 陸遜もつい、微笑ってしまった。


『貴方らしいですね……。

 けれど敵は震え上がるかも知れませんが、味方はその鈴の音がして、自分の側には【鈴の甘寧】がいるのだと思うことが出来れば、勇気づけられることもあるのでしょうね。

 貴方がそうやって多くの敵を引き付けて、誰よりも多く敵を斬ってそして無事で帰って来れば、彼らもきっと自分たちもそんな風に強くいられるのではないかと――』


 言って、陸遜は気づいた。

 甘寧は窓辺に頬杖を付いて、穏やかに笑んでいる。

 それこそ、彼が今も鈴を身につけている理由なのだと分かった。


 陸遜は自分の白い軍服を見下ろす。

 陸遜が赤壁後に真紅の軍服を避けたのは、呉において戦場の真紅というものが周瑜と結びついて特別な意味合いを持つようになったというのもあるが、それ以上に揺らがない、強いものになりたいのだという気持ちが大きかった。


 今までは自分の前には周瑜がいて、孫策がいてくれた。


 彼らは尊い地位にありながら、戦場では誰よりも身を最前線に置いて呉を勝利に導いて来てくれたのだ。

 敵でさえ、あの二人が戦場に共に並んで出陣して来る鮮やかな戦姿を覚えて、震え上がったものだ。

 自分が彼らと同じことが出来るとは思わないが、それでも、その役目を誰かが新しく担わなければならないというのなら、自分がそうなろうと思った。


 周瑜に指名された呂蒙りょもう魯粛ろしゅくの重責を思えば、戦場で敵の注意を引き受ける存在が側にいた方がいいと思ったから。

 この鮮やかな纏いを着たからには、戦場では少しの油断もならなくなる。


 だがその上で自分が無事に帰還すれば兵達の士気も上がるだろうし、戦場にいれば、目に入れた兵達の拠り所にもなる。

 今すぐ、自分が驚くような強さを持つのは無理だ。

 そこにいるだけで誰もがその存在に目を向けるような、孫策や周瑜のような覇気も、今すぐは手に入らない。


 だからせめて纏いだけは鮮やかに――、これは陸遜なりの覚悟を決めたという、心の表われだった。


 

(貴方の鈴の音ほどには、まだ敵にも味方の心にも、響かないでしょうが)



 一瞬綻んだ唇を、陸遜は引き結んだ。

 呂蒙は攻略は様子見をしながらと指示を与えた。

(――いや!)

 陸遜は強い表情を浮かべる。


(呂蒙殿は得体の知れない陣に挑む我々が気負わぬように、そういう言葉を下さったのだ)


 自分がそれを鵜呑みにして、心が弱ったら麓に戻ればいいなどという心構えでは、強さを取り戻した龐統には、永遠の時が掛かっても辿り着けない。


(様子見の戦などはない。

 軍を出陣させた以上、成果がなければ、軍は攻略が出来なかったという空気に包まれる。

 例え無事に戻って良かったと言われても――それでは物事は何一つ前進してはいない)


 鞘に戻していたもう片方の剣【光華こうか】も引き抜く。


「南の伏兵部隊を撃破して、我々も中腹まで進軍します!」


 陸遜の号令に、兵達が剣と弓を構えて呼応する。


(軍を出撃させたからには、何もせずに戻ったりはしない!

 必ず、何か一つでも呉にとっての意味あるものを得て帰還する)


 そうすることが呉兵たちの、この白い纏いへの信頼になって行く。

 自分に出来ることは、たったそれだけだ。



(それが私がここに存在する意味)



 樹間に見えた蜀兵の影に、陸遜は誰よりも先に、地を這う体勢で斬りかかって行った。



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