歯車でよかったと言える人生か

望月海月

己の材質を見極めること

 人は往々に金属である。学生時代に鍛錬し、社会に出て徐々に歯車の形に成型されていく。そして社会という機械は動き続ける。


 しかし、稀に金属以外の材質で生まれるものもいる。

 例えば、ガラスとして生まれた人がいたとしよう。彼が社会に出て歯車として生きて行こうとするとどうなるか。答えは明白だ。いくら鍛錬してもガラスはガラス。歯車の形は取れてもその耐久は言わずもがな。すぐに大破し役立たずの烙印を押されて二度と使われることはないだろう。


 壊れて終わりではない

 更に彼を追い詰めるのは周りの歯車たちの反応だ。

「壊れるのはお前の気合が足りない」「俺たちは耐えられた」と言ってくる。

 この言葉の根底にあるのが個性という概念である。

 実際「社会に出るからには個性を無視すべきだ」という意見はよく散見されるし、間違いではないとも思う。

 金属として生まれた人に取っては。


 何故間違いではないと言えるのか、例として鉄とアルミの個性を考えてみる。

 鉄:強度が高いが錆びる。

 アルミ:軽く加工しやすいが強度が低い。

 そんな彼らの個性を無視して歯車を作ったとしよう、そしたら何が出来上がるか。錆びたら磨く、摩耗したら追加工する、歯車として機能するがちょっと不便な代物が出来上がるだろう。

 要するに、個性を無視しても歯車として機能するし大破することもない。他の金属においても基本的に些事なことである。故に、金属として生まれた場合、個性を無視して歯車になることは間違いではないと言える。


 しかし、金属以外の材質で生まれた人間にとって、この言葉を真に受けてしまうと生地獄が待っている。努力してもうまくいかず、失敗の度に自分を責める。物理的に埋めることのできない材質の差を埋めれるものと勘違いし、体を削り心を削る。社会のために頑張っているはずなのに社会から弾かれる。その最期はきっと悲惨の一言だろう。


 それでは金属以外の材質で生まれた人はどうやって生きていくのか?

 視野を広げるのだ。機械を動かすのは何も歯車だけではない。無理に歯車を装うから壊れてしまう。無二の個性を持っているのだからそれを活かせばいい。例えば画家や音楽家、そして小説家。これらの職は歯車とは程遠いと考える。いかに自分の材質を活かすか、そしてどのような形を取るかは自分で選べる。求められるものが歯車とはだ。


 今一度考えてみるといい、自分はどういう材質なのか。

 将来、どういう形で社会という機械のパーツになるのか。


 なりたいものが決まれば後は目指せ。

 人生の最期に自分の歩んだ道を誇れるように。

 人生の最期に言い訳を溢さないように。


 天に昇るとき、自分の人生に意味を与えられるように。

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歯車でよかったと言える人生か 望月海月 @motiduki_kurage

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