横山真希2

「席に着いて!」


 突然教室に入ってきて、青い顔をしながらも生徒に座るように指示したのは、このクラスの副担任である井上先生だった。


「カーテンを閉めて!」


 井上先生は窓際の生徒達にカーテンを閉めるように言い、教室のカーテンは閉じられた。


「先生! 何があったんですか?! 説明してください!」


 井上先生にそう告げたのは、さっき「マスコミが来るんじゃないか?」とニヤニヤしながら話していた森谷だった。


 クラスの中でも比較的目立つグループに所属している森谷は、騒ぐことがとにかく好きなお祭り男子だ。


 事件の可能性が高い現状でも騒げるのだとしたら、人間としてどうなのかと思う。


 私はこれを事件だと思っている。


 だって人はのだから。


 水の中で死んでしまった人間は、死後、お腹にガスが溜まることで浮かび上がるものだ。


 あんなふうに水中で立ったまんまの状態でいられるはずがない。


 そんなことができるのは生きている人間だけ。


 でもあんなに長時間、おそらく頭から目にかけてだけ出した状態で水に顔をつけていられる人間なんてそうそういない。


 ヨガなどの達人ならば何時間も息を止めた状態で水中に潜っていることも可能らしいけど、そんなのは常人だけで、普通はできっこない。


 あの球体だと思っていた物が水面から動くことは一切なかった。


 私はあれに気づいてからずっと見ていたのだから間違いない。


 あの状態で呼吸をしようとしたら必ず頭は動くものだ。


 一瞬も目を逸らさずに見ていたかと言われたら、瞬きはしていたのでそうだと言いきれないけど、それでも私が見ている限り一度もあれは動かなかった。


 遠目でも動いているかどうかくらいは分かる。


 うちの学校のプールは中央が一番深くなっていて、水深は正確には分からないけど、百六十二センチの私が立っても口が出るか出ないかの深さがある。


 おそらく百五十センチ弱くらいの水深があるはずだ。小柄な子ならつま先立ちしても顔が出ない。


 あのプールの中にいた人物が直立不動であの身長なら、息継ぎをするためにはプールの底を蹴って浮かび上がるか、つま先立ちをして顔を出すかしかないけど、そんな動きはなかった。


 大きな動きがあれば水面は波立つものだけど、それもなく、水面はずっと凪いでいた。


 そう、本当に凪いでいたのだ。


 一切の動きのない澱んだ水にポツンと浮かんだ黒い球体。


 だからこそ余計に気になってしまったのだから。


「今日は一斉下校になり、明日以降のことについては『テトラ』にて連絡が入ります」


 テトラとは学校からの連絡が配信されるアプリで、急な授業の予定変更や、保護者への連絡、生徒の欠席や遅刻の連絡などが可能となっている。


「ねぇ、先生! 何があったんだよ。教えてくれてもいいんじゃないの?」


 お祭り男子その二の菊池がそう言うと、教室のあちこちから「そうだ」、「教えて」などと声が上がった。


「先生から言えることは何もありません。みんな、寄り道などせずに家に帰るように」


 不満を口にする生徒を無視して、井上先生は皆へ帰り支度を急かした。


 昇降口を出た時、校庭内にパトカーが二台入ってきたため、帰ろうとしていた生徒達が騒ぎ始めた。


 プールへと消えていった警察官だったが、一人が戻ってくるとパトカーの中に消え、残りの警察官がプールに近づけないように立ち入り禁止のテープを貼り始めた。


 何が起きたのか見に近づく生徒達を教師達が追いやり、騒然とする中を私は家路に着いた。


 はっきりと見えなかったとはいえ、あれに気づいた最初の一人は私だ。


「何で気づいちゃったかな……」


 誰もいない家の中でポツリと呟いた。


 両親は共働きで日中は家には誰もいない。


 あんなものを見てしまったからか、いつもなら気にならない静けさが妙に気になり居心地が悪い。


 帰ってくるなりドタバタとうるさい母の存在がとても恋しく感じる。


 静けさを打ち消したくてテレビをつけると、再放送の時代劇がやっていた。


 特に興味はなかったけど、チャンネルを変える気にもならなくてそのままかけていた。


 それをぼんやり見ているうちに私は眠ってしまっていて、嫌な夢を見ていた。


 誰もいない教室で一人、私はプールを眺めている。


 誰かの頭がポツリと浮かんだプールは不気味に色を変えながら、ただ静かに凪いでいる。


 足元が冷たくなり、水が静かに教室を満たすのに、私の体は凍りついたように動かない。


『あぁ、私もああなるのか』


 少しずつ水位は上がり、口元まで水が来ているのに、私の視線はプールから動くことはない。


「あなたも一緒においでよ」


 誰かの声がして飛び起きた。


 夢にしては妙に生々しく耳に残った声は、鼓膜にこびり付いてなかなか離れていこうとしない。


「早く帰ってきて」


 得体の知れない恐怖を感じて、両親の帰りを待ちわびていた。

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