エピソード30

「あぁ、遅かったな」


伊禮は風呂上がりなのか、Tシャツと下着姿のまま、タオルで髪を乱雑に拭いていた。


こちらはというと、帰宅してスーツを脱ぐ間もなく、伊禮からの一報で取るものも取りあえず引き返してきたところだ。

髪は乱れ、ネクタイは斜め。鏡に映ったら、たぶんひどい顔をしていただろう。


そんな私に対し、伊禮は平然と、涼しげな顔で笑いかけてくる。

その余裕に、ムッとした感情が喉まで込み上げたが、どうにか飲み込んだ。


「で、急ぎで来いって……一体、なんの話だ」


「まあまあ、まずは座れよ。一杯どうだ?」


伊禮は冷蔵庫を開け、無造作に缶ビールを一本投げてよこした。


――終電はとっくに逃した。タクシーを呼ぶか、ここで朝まで時間を潰すか……。


「あぁ」とだけ答え、缶を開ける。

プシュッと軽快な音とともに、泡が弾けた。


ひと口飲むと、喉の奥が火照ったように熱くなり、少しずつ頭の重さが取れていく気がした。


「ははっ。結構イケる口だったんだな」


ふざけたように笑う伊禮に、思わず軽く眉をひそめる。

からかわれているのは分かっていたが、言い返す気も起きず、口元についた泡を袖で拭った。


「……で?」


本題に入るよう促すと、伊禮は静かに息を吐いた。


「……まだ確証はない。でも、たぶん、いや――きっと、俺はこのシステムを“知っていた”んだ」


「知っていた……?」


珍しく、伊禮の声が少しだけ揺れていた。

確信と迷いの狭間で立ち尽くしているような声音。


「虎時も知っているだろう、久遠了。どうやら、あいつと俺は、この『REM-Sign』の開発に携わっていたらしい。だけど――その記憶が、曖昧なんだ」


「……開発に、関わっていた?」


信じがたい話だった。だが、伊禮の目は冗談を言っている時のそれじゃない。


「俺の感覚が正しければ、『REM-Sign』は“記憶”そのものを媒体にしてる。映像やデータじゃない。もっと曖昧で、でも確かに残るもの……語りの間とか、音の抑揚とか……そんな“残響”を拾ってる」


「残響……」


「――符号に記憶が宿るってことかもな」


伊禮はそう言いながら、パソコン画面に流れるコードを見つめた。

流れる数字列が、まるで何かを訴えているように思えてならない。


「そういうことか。でも、ひとつ引っかかってる」


伊禮はわずかに表情を曇らせる。


「柴田先生と、自動車事故を起こした男――このふたつの符号が、どうして重なったのかがわからない」


「……一見、なんの接点もなさそうだな」


私も思わず息を飲んだ。確かに、あまりに奇妙だ。


「だから虎時、ふたりの背景を調べてくれないか。共通点があるはずなんだ。俺の直感だけど、きっとそこに何かがある」


――直感、か。

この時間に呼び出しておいて、根拠はそれか。


「……分かったよ。でもな、今度からは電話で済む話なら、なるべく電話にしてくれ。

 せめて、パンツ姿で迎えるのはやめてくれ」


「はははっ、そう言うなよ。でも、お前と飲みたかっただけだ」


伊禮は無邪気な顔で笑った。


……腹立つやら、情けないやら。


気づけば、私もつられて笑っていた。

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