第37話 疫病
アケトアテンの王宮ではアクナテンの留守を預かる王妃ネフェルティティが日々刻々と変化する国内外の情勢に目を光らせ執務に忙殺されていた。
王妃は赤く四角い冠と細やかな襞の入った白いリネンの服を身につけている。
「王妃様、町で大変なことが起きています」
王妃の召使いとして仕えているゼノビアが、青ざめた顔でネフェルティティ王妃の執務室に駆け込んだ。
「何が起きたのです」
ネフェルティティ王妃は召使いに命じ、ゼノビアに水を飲ませる。
「恐ろしい病が流行ってます」
「どんな病ですか?」
「咳をしながら血を吐くのです」
「血を吐く……」
ネフェルティティはすぐに、数年前にテーベで流行った疫病を思い出した。
苦しそうに咳き込みその度に大量を血を吐く。瞬く間にテーベのスラムに広まり何千人もの人が命を奪われたのだ。
「石切場の職人の間から広まったようです」
ゼノビアは床にひれ伏したまま背中で大きく息をしている。
「ゼノビア、ありがとう。休んできなさい」
王妃はゼノビアの体調を気遣った。
「ありがとうございます」
息も切れ切れにそう言って、ゼノビアは召使い達に伴われて執務室から出て行った。
「王妃様、火急の用件とは、如何されましたか」
神の父、の称号を持つアイが肥満した体をゆっくりと動かしながらやって来た。
「王妃様!」
パアテンエムヘブ将軍が後に続いて入ってくる。
将軍は妹のキヤがアクナテン王の第二夫人となったことで、急速に宮廷での影響力を強めていた。
「石切場から吐血する流行病が広まっているのをなぜ報告しなかったのです?」
ネフェルティティ王妃はアイとパアテンエムヘブを叱った。
「恐れながら、王妃様の耳に入れるほどのことではないと。すでに我々で対応済みで御座います」
アイは事も無げにそう言って微笑む。
「判断するのはわたくしです」
ネフェルティティ王妃は真っ赤な椅子に腰掛けた。
「申し訳ありません」
若いパアテンエムヘブ将軍は襟を正した。
「どのような指示を出したのです」
「病が流行りだした作業場を閉鎖して、患者達を全て神殿の病院施設に保護しました。ご安心下さい」
アイは大げさに手を広げ大したことではないと言わんばかりに満面の笑みを浮かべる。
「王妃様、恐れながら申しあげます。この病に罹った人々はまだ街中の至る所にいます。それも日毎に病人の数が急増しているのです」
上下エジプトの医師長で王家に仕えるメリト・プタハがやってきた。
女性医師のメリト・プタハはメンフィスのイムホテップ神殿で医学を学び首席で卒業したエリート医師だ。ネフェルティティ王妃にその優秀さを認められ、アマルナ王家の筆頭主治医となっていた。
「そんな馬鹿な。私が一週間前に調べたときは二十人ほどしかいなかった。その患者も家族も病院に隔離しています」
アイが慌てて説明する。
「ではなぜ感染者数が急激に増えているのです」
「後から発病した者が多数でたとしか思えません」
パアテンエムヘブ将軍もまったく見当が付かない。
「マフを大至急呼びなさい」
ネフェルティティは召使いに命じた。
すぐに警察長官のマフが執務室に駆け込んできた。
「街中に吐血の病が広まっています」
王妃はマフならもっと詳細な情報を掴んでいるのではないかと期待した。
「はい、石切場の職人から広まり、瞬く間に街中に広まりました。そして今も患者は増え続けています」
「なぜ報告しなかったのです」
「不審な点が多いのです」
「どんなことです」
「流行病に罹った職人家族を南の神殿に隔離して治療に当たらせていたのですが、その翌日には東の港で十人血を吐く病人がみつかり、それから船が入る度に重症化した病人が増えるのです」
「マフ、あなたは港に行ってテーベから来る船を調べなさい」
ネフェルティティはまさかとは思うがとても嫌な予感がした。
「船に病人が積まれてないかをですね」
いつも冷静で頭の切れるマフも薄々感づいていた。
「そうです。その可能性が高そうです」
ネフェルティティは病に罹った市民が急激に増えたことを疑った。
王家を逆恨みしたテーベのアメン神官団が、テーベで罹患した患者をアケトアテンに運び入れているのではないか。そんな不安さえおぼえるのだ。
「わかりました」
マフは執務室からでるとすぐに警察隊を引き連れ港に向かった。
「メリト・プタハ先生は医師団を率いて病人の治療に当たって下さい。これ以上死者を増やしてはなりません。治療や隔離の判断、療養所の開設の権限を与えます」
王妃はこの有能な若い女性医師に全幅の信頼をおいた。
「お任せ下さい」
メリト・プタハは王妃の前で跪き頭を下げると、足早に執務室を出て行き、医療チームを立ち上げ病人の治療と療養にあたることになった。
「このまま病人が増えれば市民がパニックを起こすかもしれません」
ネフェルティティ王妃はそう言って立ち上がり、アイとパアテンエムヘブ将軍を正面から見つめた。
「お任せ下さい。我々はアテン神に誓ってエジプトの安全を守ります」
アイとパアテンエムヘブ将軍はネフェルティティ王妃の前に跪き頭を下げると、急ぎ、部屋を出て行った。
執務室にいるのはネフェルティティ王妃だけになった。
窓から太陽の光りが差し込んでいた。
ネフェルティティは疲れを癒やして貰おうと、アテン神の生命の光を浴びるため窓に近づこうとした。
すると突如、分厚い雲が光を遮った。
「……」
不意に王妃の背中に悪寒が走った。
嫌な予感がした。
陛下、早く帰ってきて。
ネフェルティティは椅子によろめくように腰掛け、そのまま意識を失った。
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