第20話 夢
ユリは目を開けた。
見慣れた天井を見上げる。もうこのベッドで寝るようになってから何度も見てきた光景だ。
上半身を起こし、部屋の中をぐるりと見回す。見慣れたカーテン。見慣れた引き出し。見慣れたクローゼット。
見慣れたものばかりのそこは、ユリのアパートだった。
枕元に置いてあったスマートフォンを手に取る。土曜日の午前八時だ。
ユリはゆっくりとベッドから出て立ち上がった。そのままカーテンを開けると、日の光が部屋に差し込んでくる。
良い朝だ。絶好のツーリング日和ではないか。
その時、ダイニングの方で誰かがいるような音がした。
すぐ隣のダイニングには両親がいた。母はフライパンで何かを焼いており、父は座ってコーヒーを飲みながら自分のスマートフォンをいじっていた。
「あら、おはよう。今、目玉焼き焼いてるからね」
母はしっかりとユリの方を見て声をかけてくる。父は、おはようと言うものの、自分のスマートフォンに視線を落としたままだ。
うん、いつもの両親だ。
「ああ、うん、おはよう」
ユリも席に着く。すでにテーブルにはユリの分のトーストとサラダが用意されていたが、一人暮らし用のテーブルなので、三人で使うにはかなり小さい。父はもう食べ終わっており、空いた皿が置かれている。
「あ、あのさ」
ユリは朝食をじっと眺めながら、二人に聞きたかった疑問をぶつける。
「私、バイクで事故らなかった?」
すると、母がユリの方を振り返る。その顔は真剣で、少し怒っているようでもあった。
「あら、覚えてないの?事故のこと聞いた時はホント、心臓が止まるかと思ったわよ」
「一時的な記憶障害ってやつかもな」
父がポツリと付け加える。
母は焼いていた目玉焼きを皿に移すと、それをテーブルまで持って来てくれた。
「じゃあ教えてあげるけど、あなた事故に遭った後、病院でしばらく意識が戻らなかったのよ。それで三ヶ月も入院してたの。もうお父さんとお母さん心配で心配で、夜も寝られなかったわよ。退院してからはこうして様子を見に来てあげてるんじゃない」
うんうん、と父も頷く。
そうだったのか…じゃあ、あれは全部夢だったんだ…。
ユリの目には自然と涙が溢れてきた。
両親にまた会えた喜び。そして、もう魔王とヘレナに会えない悲しみが同時に心に押し寄せてくる。
母が心配そうな顔で覗き込んでくる。
「どうしたの?」
「ううん、変な夢、見ちゃって」
ユリは涙を拭って無理やり作り笑いをしようとする。しかし魔王の側近として蘇り、魔王と一緒に旅をしたことを思い出すと、余計に涙が溢れそうになってきた。
それを誤魔化すため、ユリは急いで朝食を平らげた。
母の作ってくれた朝食は、いつものように美味しかった。
外の様子を見るため、ユリは一人で外に出てきた。週末の朝だからか、人通りはまばらだ。行き交う車の数もそれほど多くない。
そうだ。この世界には車があるのだ。と言うことを不意に思い出した。もちろん、バイクもある。飛行機だってあるから、遠くの国にだってすぐ行くことが出来るのだ。そうそう、電車だって忘れちゃいけない。東京の鉄道網はすごいのだ(複雑だけど)。
なんて便利な世界なんだろう!
ユリは体を伸ばし、思いっきり息を吸い込む。朝の空気が胸いっぱいに入ってくる。
その時、何もないはずの自分のバイク置き場に、シートがかけられたバイクが置いてあることに気がついた。愛車のGB350は事故で廃車になったはずだから、誰かが勝手にバイクを停めているんだろうと思い、シートを少しめくってみる。
「え?」
驚き、シートをすべて剥ぎ取ると、それはユリの真っ赤なバイクだった。
「あ、相棒!」
思わず愛車を抱きしめるユリ。
あの事故の後、誰かが修理してくれたのだろうか?
バイクに目立った傷はない。
「これでまた一緒に旅に行けるね」
バイクを撫でたその時、背後に誰かの気配を感じた。
「ユリ」
聞き覚えのある声に釣られて振り返ると、そこには魔王が立っていた。
「え、魔王様?」
「落ち着いて聞くんだ、ユリ。お前は今、ヴァヴェルの術中にある。お前の精神を無理やり過去の記憶に飛ばし、そのまま帰って来れないようにしようとしているんだ」
ユリは、魔王が何を言っているのか理解できない。頭の回転がかなり鈍っているように自分でも感じた。
思わず頭を両手で抱え込む。
「お前は選ばなくてはいけない。ここに留まるのか、私と共に来るのか」
これは夢だろうか?だとしたら、何が夢なのだろうか?こちらの世界に帰って来られたこと?魔王様たちと一緒に旅をしたこと?
顔を上げて魔王の顔を見る。少し、寂しそうだった。
ユリは以前相棒だった赤いバイクをもう一度見る。そして、アパートの入り口には両親が立っており、こちらを黙って見つめていることにも気がついた。
「魔王様と一緒に行けば、もうここには戻れないんですか…?」
魔王はゆっくりと頷いた。
「今お前がいるのは、お前自身の記憶の中だ。そこに未来はない」
だが、と続ける。
「思い出とは美しいものだ。私は自分の両親のことを覚えていないが、きっととても素敵な思い出がたくさんあったのだと想像するのは難しいことじゃない。だから、ユリがここに留まる選択をしたって、私はお前を責めたりしない」
ユリは俯き、「少しだけ時間をください」と言うと、両親の方に駆けて行った。
「お父さん、お母さん」
二人は心配そうな顔で、黙って聞いている。
「二人が私の記憶の中のお父さんとお母さんで、本物じゃないって言うことはわかってるんだけど、これだけは言わせて」
ユリは思い切り頭を下げた。
「ごめんなさい!私は最低の親不孝ものです!」
涙が溢れ出す。足元のアスファルトには、涙の跡が刻まれていく。
すると、母がユリを抱きしめた。
「私たちの子供として生まれてきてくれて、ありがとう。あなたのお母さんで、私は本当に幸せだったわ」
次に、父が頭を掻きながら口を開く。
「実はお前には言ってなかったんだが…父さん、お前が生まれる前までバイクに乗ってたんだ」
えっ!?
ユリはまったく知らなかった。だが、だからこそバイクに乗りたいと言い出した時にも反対しなかったのかもしれない。
「母さんを後ろに乗せて、よくツーリングに行ったものだよ。だからバイクの楽しさをよく知ってる。どうだい?バイクに乗るのは、楽しかったかい?」
ユリは袖で涙を拭うと、父に無理やり作った笑顔を向けた。
「うん、本当に楽しかった」
ユリは父に抱きついた。父はあまりそういうことに慣れておらず、最初は戸惑っていたが、ついにはしっかりと抱き寄せてくれた。
「お父さん、お母さん、本当にごめんなさい。そして、ありがとう…私、もう行くね」
父との抱擁を終えると、母がユリの手を握った。
「次の世界でも、体に気をつけてね。あなたが幸せでいてくれることが、私たちの幸せだから」
「覚えておいてくれ。私たちは、離れていても家族だ」
ユリは、うん、と頷くと、もう振り返らないと決め、魔王の方へと歩いて行った。
魔王は、嫌な顔もせず、バイクの近くでじっと待っていてくれた。
「もう、いいのか?」
「うん…」
魔王がユリに手を差し出す。
その手を取れば、もう二度とここには戻って来られない。それだけはユリにもわかっていた。もう両親には会えないし、バイクに乗ることだって出来ない。
それでも、ユリは魔王の手を取った。
自然と涙が溢れそうになるが、この選択が間違いじゃないとわかっていた。
「私はあなたの側近です。ずっと、ずっと、一緒です」
その声は涙に震えていた。
魔王が少し、微笑んだ気がした。
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