第46話 千通りの父
私の想像の中で、父は空を支える大黒柱だった。
毎日、家族に少しでも美味しいものを食べさせるために、必死で働いている存在だった。
私の夢の中で、父は
そして、不切実な子ども時代の私は、父こそがすべての期待であり、すべての待ち望む存在だった。
でも、よく考えてみてほしい。私が使った言葉は何だった?
「幻想」とか、「夢」とか、「不切実な子ども時代」なんだ。
——「父の恩は山より高し。」そう言うけれど、その「恩」っていったい何を指すんだろう。
血のつながりという「恩」があるのなら、私を十月十日、お腹に抱えて生んだのは母だ。
養育という「恩」があるのなら、彼は一度も養育費を払わず、年末年始さえ一日も傍にいたことがなかった。
子どもは誕生日を楽しみにするものだと聞いた。
けれど私は十七年間、一度も誕生日を祝ってもらったことがない。
母は「あなたの誕生日は、私の受難の日だ」と言い、父は一度も誕生日に声をかけてくれなかった。
教育という「恩」があるのなら、彼は私の勉強を気にかけたこともなく、本を一冊くれたこともない。
それどころか、母と金のことで揉めるたびに学校へ押しかけてきて、私を捕まえて母を脅したことさえあった。
私は彼を恨んでいないし、憎んでもいない。
でも、どうしても好きにはなれない。
誰かが「お父さん」と口にしたとき、私の心に浮かぶ最初の反応は——
「それって、誰のこと?」
「清瀬、大丈夫? 一緒について行こうか?」
空が澪の横に寄り添い、小さな声で言った。音羽も心配そうにこちらを見上げている。
澪はもう、以前のようにわざとらしく笑ったり、高ぶった態度を見せたりはしなかった。
ただ落ち着いた声で一言、「大丈夫」と答え、音羽の頭を軽く撫でる。
「すぐ戻るから。」
音羽はこくりとうなずいたが、胸の奥の緊張はどうしても消えなかった。
……父親。あのときの、あのおじさん……
教員室。
澪はドアをノックした。
「大木先生、呼ばれましたか。」
「どうぞ。」
中へ入ると、そこには父がいた。大木先生の向かいに座り、スーツ姿で、いかにも立派そうな顔をしていた。
「清瀬くん、お父さんが君のことで話があるそうだ。」
「……なんの件ですか?」
澪はドア近くに立ったまま、警戒心を隠さずに問い返す。
「なんだその口の利き方は。先生に対して失礼だぞ。」
父は笑顔を浮かべ、ひらひらと手招きをした。
「ほら、こっちに来て座れ。」
澪は一歩も動かなかった。
「いいです。午後の授業の準備もありますし。用件だけどうぞ。」
「今日は先生に、澪の退学のことを相談しに来ました。」
父はそう言ってネクタイを直し、大木先生へ視線を向ける。
澪の拳が、ぎゅっと握りしめられた。
大木先生もさすがに驚いた様子で、「退学?理由はなんですか?」と問い返す。
「母親から聞きました。この子は家出をして、今どこに住んでいるかも分からないそうです。」
父は慌てたように説明する。
「そうですか……」
大木先生はちらりと澪を見た。
「清瀬くん、そんなことをしたのか?いけないな。だが、退学までする必要はないのでは?」
「それはそうかもしれませんが、この子は過去に何度も自殺未遂をしています。学校生活がそこまで負担なら、いったんやめたほうがいいでしょう。」
父は少し声を強めて言った。
「……そうですか。」
大木先生が眉を寄せる。
「違う。そんなことはありません!」
澪は感情を抑えきれず、声を荒げた。
もし父のことで本当に印象に残っていることがあるとすれば――
それは、自分に利益があるときだけ「父親」になるということだ。
でも、まさか今回、母まで父の側につくなんて思わなかった。
たった一本、祖父に電話をしただけで。
それだけで、こんなにも堂々と、私のことをさらし者にするなんて。
澪は思わず手首のゴムを引こうとした。
けれど、音羽の家に泊まっている間は、もう付けていなかった。
「先生、見てくださいよ。ちょっと何か言っただけで、もうこんなに情緒不安定です」
父はわざとらしく指を差し、さらに話を盛り立てる。
大木先生もうなずき、そして苦笑しながら答えた。
「なるほど、そういうことかもしれませんね。でも言わせてもらえば――お子さんのこうした様子と、うちの教育は関係ありませんよ。先ほど『学校生活が負担だ』とおっしゃいましたが、私たちは無理を強いていません。」
……え?なんで。
どうして、先生の最初の反応は「学校は関係ない」の一言なんだ。
私のことは……?
澪は大きく息を吸い、必死に気持ちを整える。
……やっぱり、こういうときは笑顔でごまかすしかないんだ。
澪は、いつもよりもずっと明るい笑顔を作りながら言った。
「先生、父さん。私は情緒不安定なんかじゃありません。元気です。学校のプレッシャーも感じてませんし、自傷行為なんてもうしていません。だから退学なんて必要ありません。」
「退学するかどうかはお前が決めることじゃない!学費を払ってるのは誰だと思ってる!家出もしただろう!俺が『プレッシャーだ』と言えば、それで十分だ!」
父の声が一気に大きくなる。
「私は家出なんてしてません。祖父とちゃんと相談して、出てきただけです。」
「ほう?じゃあその祖父とやらを、今ここに呼んでこいよ!」
澪は、それ以上何も答えなかった。
「清瀬くんのお父さん、落ち着いてください……ご家庭にいろいろあるのは分かりました。では、清瀬くんの退学について、改めて話し合いましょう。」
話し合い? 何を?
私の意見はどうでもいいのか。
父は権力だ。父は暴力だ。父は支配だ。
その目尻の笑みひとつで、すべてを嘲るように伝えてくる。
――「お前は私の手のひらから逃げられない」って。
かつて母が言ったあの言葉と、まるで同じように。
澪の目には、まるで灰色の幕がかかっているようだった。
それでも彼は分かっていた――今、退くわけにはいかない。
譲りたくない場所がある。
彼女の隣にいるために、頑張らなきゃ。
澪はおそるおそる口を開いた。
「大木先生。この人は確かに私の父ですが、私を育てたことも、一緒に暮らしたこともありません。どうか、彼の言葉を鵜呑みにしないでください。私は大丈夫です。退学する必要なんてありません。」
――今言ったことは全部、本当です。どうか、この声を助けとして聞いてください。
「清瀬くん、どうしてそんな言い方をするんだ。何にせよ、彼は君の父親だろう」
ああ、やっぱり……「何にせよ父親だろう」か。
でも――教えもなく、育てもなく、愛もなく……それでも父親なのか。
私は否定していない。ただ、ただ……血がつながっているだけの人間に、私のすべてを決めてほしくないだけなのに。
澪はうつむいた。
起きる気のない者を揺り起こすことはできない。
眠ったふりをしている集団なら、なおさらだ。
……音羽。君も、あのとき同じ気持ちだったのかな。
そのとき、ドアがノックされた――いや、むしろ勢いよく押し開けられた。
「清瀬くん、教室に戻っていいぞ。さっき君のおじいさんと電話で話した。君のことは木曜に改めて議題にしよう。」
斉藤先生が、のんびりと入ってきた。
大木先生は慌ててそばに寄り、耳打ちしようとした。
だが斉藤先生は手を振ってそれを制し、そのまま言った。
「大木先生。こういう大事な話は、一方の言い分だけを聞いて決めてはいけません。それに――学ぶかどうかは、親のためじゃない。子ども自身にとってこそ大事なことです。私は一応、学年主任を務めています。この件をあなた一人に任せるわけにはいきません。」
そして、にこりと笑って澪の父に軽く会釈をする。
「午後は授業がありますので。失礼します。……清瀬くん、一緒に戻ろう。」
そう言って、ドアの方へ手で合図をした。
澪は斉藤先生と並んで歩きながら、思わず口を開いた。
「……斉藤先生、どうして急に助けに来てくれたんですか。」
「生徒が困っていたら、先生が力になるのは当たり前だろう?」
斉藤先生は柔らかく笑った。
「それにね、さっき白鷺さんたちが、君のことを心配してわざわざ私のところへ来てくれたんだ。いい友達を持ったな、清瀬くん。君は一人じゃないんだよ。」
放課後になっても、澪の気持ちはまだ落ち着かなかった。
父の性格からすれば……校門で待ち伏せしているかもしれない。
そうだとしたら、私は音羽と一緒に帰れるのだろうか。
父親――その言葉は、どうして私にとってホラー小説みたいに響くんだろう。
そのとき、不意に音羽が私の服の袖をつかんだ。急かすように門のほうへ走り出す。私も反射的に、彼女を追って階段を駆け下りた。
そして――
「音羽! 迎えに来たぞー!」
小柄でちょっと太めの男が、にかっと笑って手を振った。
「隣にいるのが清瀬くんだな?さあ、二人とも車に乗りなさい!」
門のそばには、私の父が鬼のような顔で立っていた。一瞬ためらったけれど、その男は有無を言わせず私たちを車へ押し込んでしまった。
「ほら、タピオカミルクティー買ってきたぞ。私は糖分控えてるから飲めないけど、お前たちのは半分だけ甘くしてある。健康は小さいころから大事だからな!」
澪は戸惑いながらカップを受け取った。
音羽はもう笑顔で、当たり前のようにストローをさして飲んでいる。
男は頭をかきながら続けた。
「そうだ、自己紹介がまだだったな。私は音羽の父だ。仕事が忙しくて朝早く夜遅いから、これまで顔を合わせられなくてな。けど心配するな。音羽から君のことを聞いてたんだ。文字で返信するのは苦手だし、電話も下手だから、直接迎えに来たってわけだ。父親っていうのはな、子どもたちを守るもんだからさ。」
……子ども、たち?
「それに、今日は早めに上がれたから、家でたくさん料理を作ってきたぞ。実は母さんより私のほうがうまいんだ。」
彼は途切れることなく話し続けた。たぶん、私を安心させようとしているんだろう。
「清瀬くん、口に合うかどうか分からないけどな。苦手なものがあれば遠慮なく言ってくれ。うちにいる間は私の子どもも同然だ。音羽を助けてくれたこともあるしな。」
――ずっと話している。
けれど、その声はあの男のように私を押さえつけるものじゃなくて……不思議と、あたたかかった。
「清瀬くん、さあ、帰るぞ!」
ハンドルを握った彼は、にこっと笑って車を走らせた。
父親とは――一体、どんな存在なのだろう。
門の外で待ち伏せする顔もあれば、車の中で笑って迎える顔もある。
きっと、千人いれば、千通りの答えがある。……いや、おそらく、千通りの父親の姿がある。
ーーーーーーーー
後書き:
今日、友達と話していて「父親ってどんな人?」と聞いたら、返ってきた答えは「それって、誰のこと?」でした。
だから思ったんです。もし今あなたが澪みたいに苦しい気持ちを抱えているなら、伝えたい――きっと大丈夫。大人になれば、少しずつ気にならなくなるし、血のつながりがなくても本気で大切にしてくれる「父親」に出会えることだってあるから。
私自身は、父のことを強く覚えているわけではないけれど、「とてもいい人」だと分かっています。たぶん、娘だから厳しくできなくて、いつも優しく接してくれて……思い出すのは、作ってくれたご飯ばかりだ。
それから、カクヨムで出会ったお父さんたちはみんな子どもを大事にしていて、なかにはシングルで必死に育てている方もいました。自分の子どもにあまりにも一生懸命で、「あなた自身のことも、もう少し気にかけてあげて」と言いたくなるくらいの愛情でした。だから正直、澪の父親には全然共感できなかったんです。もちろん、現実にそういう父親もいるとは思いますが。
家族というのは、いつも難しい課題です。でも私は変わらず、自分を大事にすることが一番大切だと思っています。誰もが「誰かの子ども」であり、「誰かの親」だからこそ、元気で健康でいることが、なにより大事!
今日も、明日も、ごきげんよう〜ここまで読んでくれてありがとうございます。
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