第15話 サボちゃんと、ネコおにぎり

『おはよう、白鷺さん!』


 水曜日の朝。音羽を目覚めさせたのは、サボテンをもらって大はしゃぎしている澪からのメッセージだった。

 画面越しにも伝わってくる、あふれる喜び。


『白鷺さんは元気ですか!サボちゃんも元気ですよ!』

 という挨拶と一緒に送られてきたのは、綺麗に撮られたサボテンの写真だった。


 寝起きの音羽は、ぼんやりしながら返信を打つ。

『サボちゃん?』


『はい!白鷺さんにもらったサボテン、サボちゃんって名づけました!』

『なんか、サボってるみたいな響き……』


『そこがいいんですよ!サボってるって、悪いことじゃないと思うんです。ちゃんとしてなきゃって思う毎日の中で、ちょっとサボるのって、すごく大事なことだと思いませんか?』


 そんなふうに考えたことなんて、今までなかった。

 音羽は、ぱちりと目が覚めた気がした。


「サボる=いけないこと」

 そんなふうに決めつけられてきた世界で、みんなが当たり前のようにそう言っていた。

 でも、「サボるのも、ちゃんと大事なんだよ」、こんなふうに言ってくれた人は、初めてだった。


 その瞬間、窓から差し込む朝日が、やけにまぶしく感じられた。

 たぶん、寝起きのせいだろうけど——

 音羽には、それが風に乗って舞い上がるタンポポの綿毛みたいに見えた。

 ふわふわと、きらきらしていて、どこまでも優しくて。


 その瞬間、昨日、澪が言ったあの言葉が、ふいに耳の奥でよみがえった。

「べつにさ、何を言われても、私は彼女のことが好きなんだよ。」


 ——ぽっ。


 音羽は、自分の頬がほんのり熱くなっているのを感じて、あわてて布団を抜け出した。


 学校では、いつも澪のまわりでにぎやかにしているクラスメイトたちも、不思議とおとなしかった。

 誰も音羽にちょっかいを出してくることはなく、教室の空気は、どこか張りつめたものが解けたように、穏やかだった。


 放課後を待つ時間、教室の隅では、音羽と澪がそれぞれの思いを胸に、言葉少なに過ごしていた。

 音羽の心は、ずっと「小春の包帯交換」のことでいっぱいだった。それだけを考えながら、カバンを何度も確かめたり、時計に目をやったりして、一日を乗り切った。


 一方そのころ、澪はというと——


 今日は一緒に動物病院に行くって約束したし……やっぱ、放課後はまず白鷺さんを家まで送ったほうがいいよな。

 家まで送って、それから小春を連れて病院へ……終わったらまた家まで送って……


 ……なんか、彼氏っぽくない?

 うわ、想像しただけでちょっと緊張してきた……


 いやいや、落ち着け。大事なのはスムーズに動くことだ。

 一回、頭の中でシミュレーションしておこう!


 放課のチャイムが鳴ると同時に、澪はすっと席を立った。

 ……かと思えば、すぐにまた腰を下ろし、そっと身を傾けて音羽にささやく。

「……まずは、小春を迎えに家に寄ろうか。それから病院へ行こう。」


 音羽は小さくうなずいた。


 ふたりは並んで校門を出て、ゆっくりと歩きはじめた。


 春の気配がにじみ出す午後の街は、どこか甘い。

 コートのすき間から入り込む風はまだ少し冷たいけれど、

 陽だまりの匂いと、芽吹いた草の青い香りが、ほんのりと空気に混じっていた。


 歩道のすみには、小さな花が顔を出しはじめていた。

 すれ違う自転車のベルが、からんと軽やかに響く。

 電線の上では、雀が何か楽しそうにさえずっている。


 光と影がゆらゆらと踊る中で、澪は、音羽の歩く速さに自然と歩調を合わせていた。


 言葉は少なくても、不思議と心はざわめいていて——

 そんなふうに歩いているうちに、ふたりはいつのまにか、動物病院の前に着いていた。


 診察は順調。小春はおとなしくしていて、処置もすんなり済んだ。

「回復早いですね。よくお世話されてたんですね!」

 医師の言葉に、音羽は小さく微笑んだ。その表情は、いつもより少しだけ、自信に満ちていた。


 だが、その安堵は長くは続かなかった。病院を出て、歩き出してすぐのことだった。


「——っ」

 ふいに、音羽の足が止まった。

 そしてそのまま、しゃがみ込むようにして膝をつく。


「……白鷺さん!どうしたの!?」


 澪はすぐさま駆け寄り、しゃがみ込む。

 音羽の唇は少しだけ震えていて、顔色は明らかに悪い。


「……っ……」


 声にならない息が、喉の奥で詰まった。

 痛みをこらえるように、お腹を押さえている。


 ——喉に異常はありませんが、薬と食事の影響で、胃に少し炎症が見られますね。

 心理的なストレスを抱えている方には、よくあることです。

 食べられなかったり、逆に過食になったり。

 放っておくと、胃がんになるリスクもあるので、気をつけてくださいね——


 林先生の言葉が、突然頭に浮かんだ。


「……もしかして、胃……?痛いの?」


 音羽はかすかにうなずいたが、すぐに目をそらした。

 無理に笑おうとするその仕草が、逆に痛々しい。


 澪の眉が寄る。

「ねえ……今日、朝も昼も……食べてない?」


 そのひと言に、音羽はぴくりと反応した。

 そして——目を伏せたまま、ただ、黙っていた。


 澪は、音羽の様子と、小春の小さな身体を交互に見つめ、少しだけ迷ったあと言った。

「……ここから、どこかに食べに行くのも大変だよね。小春もまだ安静が必要だし。」

 そう言って、スマホを取り出す。

「タクシー、呼ぶね。今日は、無理しないで。帰ろ?」


 音羽は意外そうに目を瞬かせたが、やがて、小さくうなずいた。


 タクシーの中では、ほとんど会話はなかった。

 けれど、澪の手の中で鳴りをひそめたスマホと、音羽の腕におさまった小春の温もりが、不思議と安心を運んでいた。


 やがて玄関の前に着き、音羽が鍵を開ける。澪も靴を脱ぎ、気遣うように一歩踏み込んだ。

「……お母さん、まだ帰ってない?」


 音羽は小さく首を振る。


 その様子を見た澪は、ちょっとだけ思案顔になってから——

 少し照れくさそうに笑った。


「なあ、台所、少しだけ借りていい?」


 音羽はきょとんとして、目を見張った。そして、かすかにかぶりを振る。

 けれど、澪は気にする様子もなく、さらりと続けた。


「大丈夫、たいしたことはしないから……って言っても、自炊歴はそこそこあるからさ。見た目によらず、けっこうやるんだよ?」


 音羽は戸惑いながらも、それ以上は拒まなかった。

 澪の声が、まるでキッチンの空気をふんわりと温めていくようだった。


「白鷺さんは、小春ちゃんと一緒に休んでて。何かあったら呼んで……すぐ、できるから。」


 そう言って、エプロンもないまま、澪は手を洗い、冷蔵庫を開けた。

「ん……卵とミルク、それに——あ、牛肉もある。野菜もわりと揃ってるな。

 ……おばさん、料理けっこう得意なのかな。うちの冷蔵庫とは大違いだ……」


 そう呟いた澪は、ほんの少しだけ寂しそうに笑う。

 けれどすぐに、「よし、なんとかなるな」と声を張り、まな板の前に立った。


 リビングの隅からそれを見つめる音羽の胸に、その姿は、どうしてか、じんわりとあたたかく沁みていくようだった。


 料理はあっという間に出来上がった。シンプルに牛肉を焼いて、オクラのおひたしを添え、あとは牛乳とおにぎりを並べただけ。簡単だけど、どこか温かみのある食卓だった。


 澪はリビングで小春を抱いたまま眠っていた音羽を起こした。

 自分が眠ってしまっていたことに驚いたのか、それとも澪が台所に立っていたことに戸惑ったのか、音羽は一瞬だけ目を見開いた。

 それでも、ゆっくりと食卓に近づく。


 けれど——


 食べるより先に、音羽はスマホを取り出して、おにぎりの写真を夢中で撮り始めた。

 そしてすぐに、澪にメッセージを送る。

『このおにぎり、めっちゃかわいい!』

「でしょ、猫がふたりいるの」と、澪は笑う。


『でも~小春だけじゃないの?』


 音羽が首をかしげながら返すと、澪はただ優しく微笑んだ。

 ——そう、ふたりいるんだよ。大春と、小春。


「はいはい、ご飯冷めちゃうから、早く食べようね、白鷺さん!」

 澪は少し笑いながら音羽を促す。音羽は照れくさそうに笑って、箸を取った。


「無理はしなくていいよ。食べられるだけでいいから。」

 そう言って、澪は向かいの席に腰を下ろす。音羽はこくんとうなずいた。


「白鷺さん、入学してから……昼ごはん、一度もちゃんと食べてないでしょ。」

 思いがけないひと言に、音羽は顔を上げた。けれどすぐに、目をそらして、黙ってご飯を口に運んだ。


「朝も、たぶんちゃんと食べてないよね。夜は……少しは落ち着いて食べてるのかな?」


 その言葉に、音羽の肩が小さく震えた。

 ——どうしてこんなに見抜かれているんだろう。

 怖いくらい、やさしくて、温かくて。


「胃ってね、心とつながってるんだ。だから私は、音羽の胃が元気で、心も元気であってほしい。」


 その言葉が胸に落ちた瞬間、音羽の目の奥がじんと熱くなった。

 理由なんて、よくわからない。でも、なぜか涙が出そうだった。


 ……そして、ふと。

 ……音羽。


 いつの間にか、名前を口にしていた。


 その瞬間、ふたりの間に、一瞬だけ時が止まる。


 音羽は驚いたように目を見開き、澪もまた、自分の言葉に気づいて——

「……あっ、ご、ごめん。つい……」


 どちらともなく、顔がぽっと赤くなった。

 頬を染めたまま、ふたりはしばらく目を合わせずに、音羽はおにぎりをつついた。


 そのとき、小春がぽふっと音羽の膝に乗ってきて、にゃあと一声鳴いた。


「……ほら、食べないと怒られるよ!」

 澪が慌てて冗談を言うと、音羽はふっと笑って、また一口、ごはんを口に運んだ。


 それを見届けてから、澪は「じゃあ、そろそろ帰るね」と立ち上がる。

「今日は小春ちゃんのおつかれさま会だったからね。白鷺さんも、おつかれさま。これから傷のケアで困ったことがあったら、いつでも連絡してね。」


 音羽はこくんとうなずき、小さく手を振った。澪もカバンを肩にかけて、急いで玄関へと向かう。


「じゃ、また明日。」

 軽く手を振って、ドアを閉めた——その瞬間。


 ……危なかった。


 大春と小春。

 林先生の話。

 おばさんの料理のことも。


 ——うっかりしすぎたかもしれない。


 気づかれてないと思ってた。でも……

 私、どこまで言っちゃったんだろう。


 知りすぎてるなんて、気持ち悪く思われたかもしれない。

 けど、知らないふりなんて……できなかった。


 ……ずっと見てきたんだ。

 彼女が、昼ごはんを抜いてることも。

 下を向いて歩く姿も。

 小春のために、どれだけ頑張ってたかも。


 ——だから。

 私なんか、できることくらい……あってほしいと思ったんだ。彼女のために。


 夕焼けが澪の横顔を照らしていた。

 その頬の赤みは、光にさえ隠せなかった。

 風がふわりと吹いて、またタンポポの綿毛が舞い上がる。

 ……でも、今だけは。なぜだか、それが淡いピンク色に見えた。


 ーーーーーーーーー

 後書き:

 今回のテーマは、実はこの小説を書き始める前からずっと描きたかったものでした。

 というのも、私自身もよく感じていることなんですが、気持ちが沈んでいるときって、つい胃に優しくない生活をしてしまいがちなんですよね。

 そんなときこそ、本当は——ちゃんと食べることが大事なんだと思います。


 どんなにしんどくても、温かいごはんがあれば、少しだけ心がほぐれる。

 だから、「ちゃんとごはんを食べる」って、きっと自分を大事にする第一歩なんだと思って、このお話を書きました。


 そして、私の一人ごはん写真のまとめをお届けします📸

 https://kakuyomu.jp/users/kuripumpkin/news/16818792436823766794

 読んでくださった皆さんにも、「今日はちゃんと食べてみようかな」って思ってもらえたら嬉しいです🍚🌱ちゃんと食べて、ちゃんと生きよう〜

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