第9話 春のしわざと、ふたりの鼓動

 通学五日目。

 今日は終わったら週末。今のところは、大丈夫。前の学期よりも、みんな……少しだけ優しい気がする。うん、大丈夫。


 もし、来週の月曜日に林先生に会いに行くなら——何を描こうかな。

 図書室、踊ってた風見さん、猫……それと、ピンクのスムージー?


 ……そこまで考えて、音羽はちょっとだけ顔が熱くなった。


 最近、小春ちゃんには会えてない。元気にしてるかな。

 学校が終わったら、ちょっとだけ探してみよう。


 転校五日目。

 今日は終わったら週末。週末になれば、きっと彼女には会えない。そもそも、また週末に会える立場じゃないんだよな。

 今のところは……みんな、正直ひどい。意味もなくジメジメした陰口ばっかり。くだらない。


 彼女は、まだ私のことを思い出してない。まあ、見た目はけっこう変わったし、仕方ない。

 でも、やっぱり悔しい。今の私の方が、きっと前より気楽に話せると思ってたのに。


 その軽さが、逆に彼女には迷惑だったのかな。

 ……ま、ここまで来たら、もうちょっと攻めてみようかな。


「なあ、大春。私、やっぱり……彼女のそばに、ちゃんと立てるようになりたいんだ。」澪はそう呟いて、丸くて大きなミケネコの腹に、顔をうずめた。


 通学路の途中。

 すっきりと晴れた空に、雲ひとつない。

 朝の光がやさしく頬を撫でて、制服の襟元には、花の洗剤と春の土がまざった、ほのかに甘い匂いが漂っていた。


 校門のそばでは、満開の桜がさらさらと風に揺れている。

 ふと吹いた風に乗って、花びらがひとひら、またひとひら、制服の肩にふわりと舞い落ちた——


 その瞬間、顔を上げた音羽と澪の視線が、ふわりとぶつかる。


 春の朝。すべてが、ほんの少しだけ眩しく見える。

 誰かが、昔こう言ったことがある。


「桜はたくさんの嘘をつく。

 だけど、一つだけ変わらない真実がある。

 人と、犬と、猫と、誰かと一緒に眺めると、

 幸せがふんわりと咲いていく。」


 まるで、そんな言葉が風に乗って届いたかのように。

 そこには、小さな幸せがこっそりと咲きはじめている気がした。


「おはよう、白鷺さん!」

 澪は、眩しいくらいの笑顔で手を振った。


 音羽は、桜を見て、太陽を見て、それから澪を見た。

 ——ぜんぶ、まぶしい。

 彼女も思わず微笑んで、こくんと頷いた。


 思っていたより、反応が柔らかくて、澪はちょっと驚いたように、でもすぐに続けた。

「昨日の昼、図書室で会えなかったね。」


 音羽も、ちょっとだけ意外そうに目を瞬いた。スマホを出して返そうか、一瞬だけ迷う。


「あ、ごめんごめん!別に問い詰めるとか、そういうのじゃなくて……」

 澪はあわてて笑って補足した。

「どこにいてもいいけど、ちゃんとご飯食べてね。楽しく過ごしてほしいなって〜」


 その言葉を聞いて、音羽はもう一度、ふわっと笑って頷いた。


 ——まぶしい。

 その笑顔が、まぶしかった。


 澪は思わず、少しだけ身をかがめて、音羽の顔の前に顔を寄せた。


 ……やば、距離近すぎたかも。

 入学式の日も、たしかこんなふうに顔を近づけてしまいそうだった。泣いてた彼女を、泣き止ませたくて。あの時は、ぐっとこらえて距離を保った。

 でも今、彼女は——笑ってる。

 声を出して笑ってるわけじゃない。だけど、たしかに、笑ってる。


「白鷺さん、髪に花びらと葉っぱついてるよ!」

 澪はそっと、彼女の髪に手を伸ばして、やさしく一枚の花びらを取った。

「は〜い〜、取れた〜」


 ……はあ、私ってほんと、びびりだな……


 音羽はちらっと澪の手を見て、それから澪の顔を見上げて、また小さく頷いた。ありがとうの代わりに。

 そして、ぱっと前を向いて、早足で校門をくぐる。


 なに……清瀬さん、ほんとに心臓に悪い。早く、行こ。


 五時間目。

 みんなが真剣に授業を受けている中、突然、窓の外から突風が吹き込んだ。

 空が一気に暗くなり、雷鳴が轟きはじめる。


 音羽の前の席の女子が、急に大声をあげた。

「やだ、こわい!」


 音羽は、ふと何かを思い出したように顔を上げて、彼女を一度だけ見つめた。それから、鞄の中をごそごそと探りはじめる。


 ──休み時間。

 雷はまだ鳴り止まず、さっきの女子はまた振り返って、音羽と清瀬に向かって騒ぎはじめる。

「ほんとにやだ、こわい!やばくない?」


 音羽は、さっと新品の耳栓を取り出して、微笑んで彼女に差し出した。小さなメモも添えて。

『どうぞ、新品の耳栓です。』


 女子は一瞬きょとんとしたが、すぐにその紙をぐしゃっと握りつぶして床に投げ捨て、耳栓もバンと音羽の机に投げ返した。

「いらないし。マジ、きも。」


 そして何事もなかったかのように、今度は甘えた声で清瀬に話しかける。

「清瀬く〜ん、こわいよ〜。なんか歌ってよ、落ち着きたい〜」


 澪はその一部始終を、黙って見ていた。そして、ふっと笑い出す。驚くほど明るい声で。

「じゃあさ、芹沢さんがいらないなら、もらっちゃおうかな!」


 そう言って彼はしゃがみ込み、床に落ちた紙を拾い上げ、丁寧に折り目を伸ばしながら、音羽の方を見てにっこりと微笑んだ。


「白鷺さん、ありがとね!」


 そのまま耳栓を耳に装着して、曲に合わせるように手をふりふり、ふざけるように体を軽く揺らす。


「なにそれ〜、清瀬くんかわいすぎ〜!」

 芹沢は笑いながら声をあげた。


 ──そして、席に戻った澪は、拳をぎゅっと握りしめていた。


 全部、彼女の気まずさを、少しでも和らげたかっただけだ。

 自分が前に出ることで、彼女がこれ以上傷つくのを、避けたかっただけ。


 でも、やっぱり——

 気味が悪い。

 誰かの優しさを、そんなふうに踏みにじる人間なんて。


 最低だ。


 ……それにしても、彼女はあの頃と変わってないんだな。

 雷の時に、耳栓か。懐かしい。


 澪はそう思いながら、ふと彼女の横顔を見つめた。やさしく笑った。


 放課後。

 朝の雷雨ほどではないが、雨はまだ降り続いていた。

 空は薄い灰色にけぶり、校舎の窓ガラスには水滴が細かく並び、ゆっくりと滑り落ちていく。屋根の縁からぽたぽたと垂れる雫は、次第に繋がって、まるで透明な真珠ような細い雨の簾をつくっていた。


 雨音はサラサラと柔らかく、遠くで傘が開く音がかすかに聞こえる。ふわっと漂ってきたのは、濡れた土と、若葉の香りを含んだ、春の雨だけが持つ匂い。そんな穏やかな雨の中、世界は少し静かで、少しだけ優しかった。


 みんなが笑いながら、傘を並べて二人三人と連れ立って帰っていく。カバンを頭に乗せて、小走りで校門を飛び出していく人もいる。

 音羽は、自分のカバンを見てから、窓の外の雨に目を向けた。


 小春ちゃん、大丈夫かな。

 ちゃんと雨宿り、できてるといいな……


 そのとき、澪が音もなく近づいてきて言った。

「白鷺さん、傘……持ってきた?」


 音羽は彼の顔をちらっと見て、それから小さく首を振る。


「そっか……まあ、隣の席だし、ほら、もう近所みたいなもんでしょ?見て見ぬふりするのもどうかと思ってさ。一緒に帰らない?」

 そう言いながら、澪はどこか不安げに笑って、さらに付け加えた。

「最近、登校のときも何回か会ってるし、帰る方向も多分似てるかなって……」


 音羽はほんの少しだけ迷うような顔をして、でも何も言わない。


 すると澪は、あわてて言葉を変えた。

「じゃ、じゃあさ、この傘、白鷺さんが使って!私は……体力あるし、走って帰るから!」


 そう言って、彼は自分の傘を差し出した。


 音羽はすぐに首を振った。そして、カバンからスマホを取り出し、画面に何かを素早く打ち込む。

『じゃあ、駅前のコンビニまで送ってもらってもいいですか。傘、そこで買います。』


 そのメッセージを見た澪は、ぱっと笑顔になって、「うん!もちろん!」力強くうなずいた。


 春の陽ざしに始まり、

 春の突風と雷鳴を越えて、

 やわらかな春雨へとたどり着く。


 まるですべてが、最初から決まっていたみたいに。

 頬を撫でた光も、心を揺らしたざわめきも、

 思わず鳴り出した旋律も、ふいに蘇った記憶も——


 やがて降りそそぐ雨は、胸の奥をやわらかく潤して、

 ふたりのあいだの距離さえ、ぼんやりと滲ませていく。


 一つの傘の下。

 音羽と澪は、言葉を交わさなかった。

 でも、それでよかった。

 言葉なんて、きっといらなかった。


 だってその時、耳に届いていたのは——

 雨の音じゃない。

 重なり合う、ふたつの鼓動だったから。


 ーーーーーーーーーー

 小さな後書き:

「桜はたくさんの嘘をつく」の一節は、私が以前書いた現代詩からの引用です。もし気になった方がいれば、こちらからどうぞ: https://kakuyomu.jp/works/16818622171416398754/episodes/16818622171691274951

 今回は、余韻をこわしたくなくて、後書きはこのくらいにしておきますね。糖分たっぷりな春の一話、楽しんでもらえたら嬉しいです。どうか、今日も「うれしい」ことがひとつありますように。

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