第8話 Bパート
翌朝、雲は低く垂れ込めていた。
空はどこか重たく、昨日とは違う気配が辺りに漂っている。
ユリシアは早くに目を覚まし、焚き火の残り火に手をかざしていた。
イリスはまだ眠っている。呼吸は安定していて、昨夜よりも顔色がいい。
(この時間が、少しでも長く続いてくれればいいのに)
そんな願いが、ふと胸をよぎる。
だが、時間は止まってはくれない。
遠く、風の向こうから微かな振動のような音が伝わってくる。
「……魔物?」
身を起こし、周囲を警戒する。
と、木々の間から聞き慣れた声が響いた。
「おーい、ユリシアー!」
「……セイル?」
姿を見せたのは、荷物を背負ったセイルだった。
昨日、ネルの言葉に傷ついたあの少年が、そこに立っていた。
「……なんでここに」
「君のこと、放っておけるわけないだろ」
その目に宿る光は、確かだった。
まだ少年らしい迷いや脆さは残っている。
けれど、自分の意志でここまで来たその姿には、たしかな決意があった。
「俺、怖いよ。今でも怖い。ネルの言葉だって、全部グサッときてる。
でも……君たちが何か大変なことに巻き込まれてるってわかって、やっぱりいてもたってもいられなかった」
ユリシアは思わず笑ってしまう。
「……馬鹿だな」
「うん。馬鹿だよ。でもさ、たとえ足手まといでも、一緒にいたいんだ」
セイルの言葉に、ユリシアは頷いた。
「……ありがとう。助けてもらうよ」
その時、イリスが目を覚ました。
寝起きの彼女は一瞬きょとんとしたが、セイルの姿に目を丸くする。
「……セイル?」
「うん。来ちゃった」
少し照れたように笑うセイルに、イリスもふっと柔らかく微笑んだ。
「ようこそ、また一緒に旅をする仲間へ」
そして三人は、焚き火を囲んで朝食をとる。
穏やかな時間。けれどその空気の奥に、どこか“嵐の前”の静けさを感じていた。
ユリシアは空を見上げる。
(この先に、何が待っているんだろうな)
だが、もう迷いはなかった。
イリスの命を削らずに済む方法を探す。
セイルとも、きちんと向き合う。
そのために、自分の足で進む。
「さぁ、行こう。俺たちの旅は、まだ始まったばかりだ」
空はまだ曇っている。
けれど、その雲の向こうには、確かに光があると信じていた。
森を抜け、川を渡り、三人は街道を外れた獣道を進んでいた。
イリスの示す方向は、今までの地図には記されていなかった古い遺跡地帯——
「影の記録庫」と呼ばれる、封印された知識の集積地だった。
「……ここに、私の記憶の鍵があるかもしれない」
イリスが呟く。声は静かだが、どこか怯えが混じっていた。
「記憶の鍵……?」
「私の力が、どこから来たのか。それを知るための……最初の手がかり」
セイルが息をのむ。
「じゃあ、本当に君の命が代償になってるかもしれないってこと……」
ユリシアは答えなかった。
答えたくなかった。
それは、まだ“希望”と呼ぶには早すぎる真実だったから。
道中、突然、空気が変わった。
風が止み、音が消えた。
一瞬、世界の“ノイズ”がごっそりと剥がれ落ちたような違和感。
「……来るよ」
イリスが前を睨んだ。
草むらがざわめき、影が現れる。
人の姿をしているが、その顔はなかった。
いや、正確には──“顔がすり替えられている”。
「……《模写人形》だ」
その言葉に、ユリシアの背筋が凍る。
人の記憶を“模写”し、人格を複製する禁忌の魔導人形。
通常の手段では倒せず、コピー元の心を乱すことでしか消滅しない。
セイルが一歩後ずさる。
「な、なんだよ……これ……!」
ユリシアが前に出た。
「下がってろ、セイル。俺がやる」
だが──模写人形がユリシアに向かって、微笑んだ。
「ユリシア。なぜ“あの時”彼女を救わなかった?」
その声は──イリスの声だった。
模写人形は、イリスの姿、声、仕草を完璧に模写していた。
「やめろ……っ!」
ユリシアの足が止まる。
「君は、自分の力が何を削っているのか、わかってるくせに。見て見ぬふりをした」
「……黙れっ!!」
拳を振るうが、影は霧のように消える。
かわりに、ユリシアの心に重く刺さる“罪の棘”だけが残った。
「……これは、“誰かの記憶”を喰らって現れる魔物。私たちの迷いが、奴を強くしてしまう……」
イリスの声は震えていた。
自分自身を模写された痛みと、ユリシアへの申し訳なさが混ざりあっている。
セイルが、ぐっと前に出る。
「じゃあ……俺たちが信じ合えば、こんなやつには負けない!」
彼の声が、空気を変えた。
「ユリシア。君が迷ってるのは知ってる。でも、俺は信じてる。イリスも、きっと同じだ」
ユリシアは、ぎゅっと拳を握りしめる。
「……ああ。俺も信じる。もう逃げない」
そして三人は、再び陣を組み、模写人形へと立ち向かった。
影は静かに、だが確実に、彼らの旅路に爪痕を残していく。
だが、それでも。
三人の心は、少しずつ、確かにひとつになっていった。
⸻
このEパートは、“心の傷と信頼”がテーマ。
模写人形という敵を通じて、ユリシアとイリスの内面の揺れを描き、セイルが支えとなる存在に一歩踏み出す構造になっています。
模写人形との戦いは、言葉では表せないほどの消耗を強いられた。
肉体的というよりも、精神を削られるような感覚。
目の前の“偽イリス”は、一切の攻撃を加えてこない。ただ、ユリシアたちの“心”を突いてくる。
「君はずっと気づいていたはずだよね。私が消えていってることに」
「やめろ……っ!」
ユリシアは振り払うように模写人形に剣を振るった。だが、剣は当たらない。影がすり抜けるだけ。
本物のイリスは、目を閉じて震えていた。
セイルがそっとその手を握る。
「……イリス。君が“覚えてること”って、どこまで?」
「わからない。でも、確かに削られてる。目を閉じるたびに、“何か”が遠ざかる……」
模写人形が、まるで楽しむように微笑んだ。
「悲しいね。愛されているのに、消えていくなんて。ねえ、ユリシア。君は、彼女の何を守るの?」
その瞬間だった。
「うるさい!」
セイルが叫び、手にした短剣を投げつけた。
それは影の肩をかすめ、霧のように抜けた。
「俺たちの心を勝手に覗くな! お前は……ただの、影だろ!」
静寂が落ちる。
そして──影の表情が、微かに揺れた。
模写人形は“記憶”を喰らう存在。だが、その根源は、揺らいだ“心”に巣食う。
「……お前はイリスじゃない。だから俺は、お前を斬れる」
ユリシアの目に、決意が宿る。
模写人形が口を開いた瞬間、ユリシアは前に出た。
剣先に、チート能力の力が宿る。だが、今はそれに頼ってはいない。
これは、“自分の意志”で振るう剣だ。
「俺は、彼女の命を、心を、踏みにじらせはしない──!」
刹那、剣が影を切り裂いた。
音もなく、模写人形は崩れ、霧となって消えた。
残されたのは、重たい静寂と、心に残る痛み。
「……ありがとう、ユリシア」
イリスが小さく呟いた。
「私、本当はずっと怖かった。いつか、自分の存在が消えてしまうんじゃないかって……」
「イリス……」
「でも、今のあなたを見て……少しだけ、安心したの。私が“消える理由”が、ちゃんとそこにあるなら、それでいいのかもしれないって……」
ユリシアは何も言えなかった。
ただ、彼女の隣に立ち、肩を並べて歩くことしかできなかった。
やがて、霧が晴れ、薄明かりの向こうに古びた扉が現れた。
そこが、「影の記録庫」だった
重たい扉を開けると、ひやりとした空気が全身を包み込んだ。
そこには、埃をかぶった本棚がずらりと並び、無数の水晶球がゆっくりと回転していた。
「……ここが、影の記録庫」
イリスがぽつりと呟く。
「この場所には、“消えたはずの記憶”が眠ってる。たとえば、私の──存在の痕跡とか」
ユリシアは一歩、また一歩と中へ進む。
棚の間を抜け、水晶球のひとつに手を伸ばした。
触れると、ふわりと光が広がり、空中に映像が浮かぶ。
——小さな少女が、ひとりぼっちで祈っていた。
「誰かを守る力が、私にもあればいいのに……」
その少女の髪は、今よりも少しだけ長く、目元には怯えが浮かんでいた。
だが、その背中には、確かな決意が宿っていた。
「……イリス?」
「うん、私。でも、これはもう……私じゃない。失われた、私の一部」
ユリシアは隣に立つ彼女の横顔を見つめた。
その瞳には、もう迷いはなかった。
「私ね、最初からわかってたのかもしれない。この力が、私の命を削ってるってこと」
「……それでも、お前は笑ってた」
「うん。あなたが笑ってくれるのが、嬉しかったから」
映像は、やがて薄れて消えていった。
その瞬間、ユリシアの胸に、激しい痛みが走る。
「……お前のすべてを、俺はまだ知らない。だから……だから、全部知りたい」
「……え?」
「知らなきゃ、守れない。勝手に“代償”なんて背負わせたまま、知らん顔なんてできない」
イリスは、少しだけ驚いた顔をしたあと、微笑んだ。
「ありがとう、ユリシア。でも……それを知ったら、きっともっと、苦しくなるよ?」
「かまわない。お前がいない未来の方が、よっぽど苦しい」
その言葉に、イリスは静かに目を伏せた。
「なら、次の記録を見て。たぶんそこに……“本当の真実”があるから」
2つ目の水晶球に、そっと手を伸ばす。
まばゆい光が、暗闇を切り裂くように広がった。
——映し出されたのは、封印された“もう一人の少女”。
イリスに、酷似した顔立ち。しかしその表情は、冷たく、そして……哀しかった。
「これは……?」
「“私の始まり”──かもしれない」
過去と向き合う時が、ついに来た。
そして、彼女の命の“代償”の意味が、ゆっくりと、紐解かれていく──。
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