第8話 灯火の傍で、声なき祈りを

夜の帳が静かに降り、風も眠るように止んだ。

その廃屋の片隅で、イリスは膝を抱え、静かに瞬く灯火を見つめていた。


ユリシアは眠っていた。セイルも、隣の小さな寝袋の中で、穏やかな寝息を立てている。

その音だけが、かすかに夜を満たしていた。


 


イリスは、そっとつぶやく。


「……怖いの。」


かすれた声は誰にも届かず、夜の暗がりに溶けていった。


「ずっと、私は“祝福の器”として生きてきた。誰かに選ばれるために……誰かのために尽くすために……そうやって、自分の意味を見つけてきた。」


「でも、いまはもう……違うのかもしれない。」


灯火の光が揺れ、彼女の影をふたつに裂く。


「あなたのそばにいると、私、自分が“誰かの道具”じゃなくて、“ひとりの人間”みたいに感じられる。」


「それが、すごく……嬉しくて、幸せで、でも……怖いの。」


イリスは胸元をぎゅっと押さえた。

目に見えない痛みが、そこにあるような気がしてならなかった。


「私の命が、あなたの力になってるのかもしれない……そんな気がしてる。だって、あの時から、体が少しずつ冷たくなっていくの。」


「でも、それでもいいって思ってた。あなたが、笑っていてくれるなら、それでいいって。」


「だけど……もし、あなたがそのことに気づいて、悲しんで、苦しんでしまうなら……それだけは、イヤなの。」


彼女の声は震え、唇も小さく震えていた。

けれど、涙は流さなかった。

流せなかった。


 


「だから、お願い。もしもいつか……私がいなくなっても、あなたが自分を責めないでいられるように……」


「あなたの未来に、私の笑顔が残っていられるように……」


灯火の小さな炎が、ぱちりと音を立てた。


その瞬間だけ、彼女の頬をひとすじ、涙が伝った。

彼女は、それをぬぐおうともしなかった。


 


夜は静かに深まり、彼女の祈りは誰にも聞かれぬまま、静かに空へと昇っていった。



朝。

かすかに朝靄が漂う中、ユリシアは目を覚ました。

眠りは浅く、どこか夢の続きを引きずるような感覚が残っていた。


ぼんやりと天井を見つめたまま、ふと気配を感じて横を向く。


イリスはもう起きていて、湯を沸かしていた。

静かな朝の支度。

だが——その姿に、なにか引っかかった。


「……おはよう」


「うん。おはよう、ユリシア」


イリスは笑った。いつもと変わらない、優しい笑顔で。


けれど、どこかで気づいていた。

その笑みが、ほんのわずかに「ぎこちなさ」を含んでいることに。


(……疲れてるのか? いや、違う。もっと……)


 


ユリシアは、焚き火の前に腰を下ろしながら、そっとイリスの顔を覗き込んだ。


「……ちゃんと、寝られた?」


「ふふ、大丈夫よ。最近は夢も見ないくらい、ぐっすり」


「そうか……」


(……じゃあ、なんで、そんなに目が赤いんだ?)


 


疑念が心に芽吹いたまま、それを口に出すことはできなかった。


 


——その日の午後、街道沿いの小さな茶屋。

補給と休息のために立ち寄ったその場所で、ユリシアたちは“あの男”と再会する。


「やぁ。偶然、だね」


静かな声。ひんやりとした笑み。


ネルだった。


 


「……また会ったな、観察者」


ユリシアが警戒をにじませながら立ち上がる。

だがネルは、まるで再会を楽しむように、紅茶をすする。


「まぁまぁ、そんな怖い顔をしないで。僕は敵じゃない。少なくとも、まだね」


「“まだ”ってなんだよ」


「言葉の通りさ。だけど、今日来たのは別の理由があってね」


ネルは、懐から黒い石のようなものを取り出した。


それは、かすかに赤く、脈打っていた。


「この反応、君たちの誰かが“限界”に近づいてるってことだよ。

ああ、安心して。これは古い遺物みたいなものでね。代償の強さが上がるほど共鳴する」


「……!」


ユリシアの背筋が凍る。

同時に、イリスの顔が、かすかに引きつったように見えた。


 


「君の力は強すぎるんだよ、ユリシア。まるで“他人の命”を燃料にしてるかのようにね。

もっとも、そんな契約を誰が結んだのか、僕にも分からないけど」


ネルはあくまで無関心を装いながら、それでいてどこか愉快そうだった。


「まぁ、気をつけて。君は“祝福の器”を手に入れたけど、それは“壊れる器”でもある」


そして、ネルは立ち上がり、背を向けて言った。


「……たまには、その子の“手”を、ちゃんと握ってやりなよ。

力の源が、まだ“生きている”うちにね」


その言葉だけを残し、ネルは風のように立ち去っていった。


 


残されたユリシアとイリス。

沈黙の中で、ユリシアはただ、彼女の手をそっと握った。

細くて、冷たくて、それでも震えてはいなかった。


「……ありがとう」


イリスが、ぽつりと呟いた。

その声に、涙はなかった。けれど、心の奥が軋む音が、確かに聞こえた。


 


——疑念は、確信へと変わっていく。


その先にある真実が、どれほど残酷でも。


ネルが去った後の時間は、やけに静かだった。

鳥のさえずりも、風の音も、耳に届かない。

ただ、手の中のぬくもりだけが、現実だった。


ユリシアはイリスの手を握りながら、ずっと考えていた。


(……どうして気づけなかったんだ、俺は)


優しくて、静かで、いつも笑っていた彼女が、

こんなにも脆く、壊れそうな状態だったことに。


「イリス……」


呼びかける声は自然と震えていた。


「……俺、ずっとお前に守られてたんだな」


イリスは、ゆっくりと首を振った。


「違うよ。あなたは、ちゃんと自分の足で歩いてきた。

私は……ただ、隣にいただけ」


「でも、その“隣”に立つために、お前が何を失ってきたのか……俺は、知らなかった」


ユリシアは、握った手にそっと額を寄せる。


「……俺が強い理由は、お前の命だ。

そんなの、もう耐えられない。誰かを犠牲にして得る力なんて、俺はいらない」


イリスの肩が、小さく震えた。


「ユリシア……」


「俺は、お前の笑顔が好きなんだ。

戦う力より、無敵の魔法より、何よりも……お前が、生きていてくれることが一番なんだ」


その言葉に、イリスはこらえていた感情をわずかに滲ませる。


「……そんなこと、言われたら……嬉しくて……苦しいよ……」


「苦しませてたのは、俺だ。だから今度は——俺が守る」


ユリシアは顔を上げ、まっすぐにイリスを見つめた。


「この力に頼らないで済む方法を、必ず見つける。

もし方法がなければ……その時は、俺の命を削ってでも、お前を守る」


イリスは、目を見開いたまま、言葉を失っていた。


やがて、涙を一粒だけ流して、彼に抱きついた。


「……馬鹿」


「うん。俺は馬鹿で、身勝手で、お前が好きだ」


 


——そして、夜。

焚き火を囲みながら、ユリシアはふと、自分の手を見る。


ネルが言った言葉が、頭をよぎる。


「“祝福の器”……か」


(器は、いつか壊れる。けど、壊れるまでに、守れる命があるなら——)


ユリシアは、そっとイリスに視線をやった。


その横顔は、どこか穏やかで、静かで、美しかった。


(お前のために戦う。それが、俺の“誓い”だ)


 


炎が揺れる。影が踊る。

その夜、ユリシアの中で“戦う理由”がはっきりと形になった。


——ただの無双者ではない。

“代償の強さ”を背負ったまま、それでも誰かを守る者として。


彼は、歩き出す。


 


次なる戦いが、待つとしても。




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