第4話
サンゴールを飛び出してから、二月が経とうとしていた。
西部エデンにあるカランルースという小さな街についた。
ここに至る前に立ち寄った村で、緑の術衣を着た吟遊詩人を知らないかと聞き回っていると、不意にすれ違った子供が知ってるー! と笑い声を上げたのだ。
「えっ⁉ ほ、ほんとうに?」
西部に来てから初めてはっきりと、彼の消息を耳にした。
「うん! だってあそこの鐘突き広場で楽器弾いてたの見たもん」
「いつ?」
「三日前。船に乗った時の話してくれたんだ!」
「もうこの村にはいないの?」
「うん。もう出て行ったよ。エルバトの方に行くって言ってた。ルブ砂漠にオアシスが出現したからそれを見に行くんだって。いいなぁ~。僕も早く大人になって色んな国を旅してみたいよ」
子供が羨ましそうに呟くのを、ミルグレンはもう聞いていなかった。
逸る気持ちを止められなかった。
ミルグレンはそのまま眠ることもなく、すぐに街を出てカランルースにやって来た。
エルバト王国方面に向う中継地である。
子供の話が本当なら、ここに向うのが一番自然なはずだった。
(きっともうすぐメリク様に会える)
カランルースの街に着くとすぐ、とりあえずこの街でその消息を探そうと思い、酒場の場所を行く人に尋ねる。
街は夕暮れ時だった。
一睡もせず、食べることも忘れてミルグレンは向こうの大通りを曲がった所だよ、と指し示された道を歩んで行く。
家路に着く人々とすれ違う。
サンゴールを離れて故郷はどんどんと遠ざかる。
それでも不思議なことにミルグレンの心は、どんどんと自分の居場所に近づいて行ってるような気がした。
孤独に冒される隙間も無いほどに、情熱に取り憑かれて歩き続けた。
思えば不思議な二月だった。
大通りに入った。
左右を確認して左手に酒場らしき場所を見つける。
すでに開店しているようだ。
そちらに歩き出してすぐ……ミルグレンの脚は止まった。
その瞬間、周囲から『音』が消えた。
サンゴール王国で見かけた時と同じ、緑の術衣姿。
やはり幼い頃の面影を見出せないほどに、青年らしく成長したその長身が目に飛び込んで来る。群集の中にあっても彼の背は一つ飛びぬける。
彼は視線を足元に下げていた。
手を衣服に突っ込んで、カランルースの夕暮れを何ともなしに散歩の足取りで出て来たような様子だ。
しかしやがて前方の大通りの真中で立ち尽くす、人の気配に気付いたらしく顔を上げた。
美しい翡翠の瞳と視線が交わる。
――ミルグレンはどきりとした。
一瞬、翡翠の瞳が驚いたように見開かれ、彼はその場で足を止めた。
不思議な距離を隔てて二人は向かい合う。
彼女はその時初めて、夢から覚めたような気持ちになった。
まず思ったのは……自分はどうしてこんな名前もロクに知らない街にいるのだろうということだ。
(私はメリク様に会いたくて……ただ、それだけで)
会いたかった。
それは本当だ。
これを逃したらもう二度と会えないと思ったから。
だからやって来たのだ。
(全部、捨てて)
母の顔が浮かんだ。
サンゴールという国を捨てた。
(私はあの国の王女なのに)
許されないことだ。
でも、許されないでもいい。
(私もサンゴールがメリク様にしたことは許さない)
憤怒に塗れようとするその自分を、綺麗な瞳が見つめている。
驚いた顔。
それはそうだ。
彼はミルグレンに、自分と一緒に来てくれと言ったことは一度として無い。
自分がサンゴールに虐げられているのだなどと打ち明けたことさえ、一度も無かった青年なのだ。
苦しいのだという素振りは何一つ周囲に悟らせないまま、彼は姿を消した。
たった一人で。
……どきりとする。
彼が別れの言葉すら考えず、置かずに別れたかったものの中に、
自分が入っていないなどと何故、考えたのだろう?
彼女は初めて自身に問いかけた。
自分だけが特別なのだと、何故そんな傲慢なことが思えたのか。
自分が虐げられたのだと訴え、苦しめられた自分の代わりに復讐してくれと、いつこの青年が言ったというのだろう?
それどころかメリクは言ったのだ。
アミアカルバの側にいてほしいと。
自分の側ではなく、女王の側にいてあげてほしいと彼は言った。
それがミルグレンの役目なのだと、君にしか出来ないことなのだと真っすぐな瞳で優しく諭してくれた。
その彼の考えにも今の自分は反している。
ザク……。
砂利を踏む音。
夕暮れを背に立ち止まっていたメリクがゆっくりと近づいて来る。
その顔に喜びとか嬉しさなどというものは、どの角度から見ても見つけられない。
心が怯える。
どうして思いつかなかったのだろうか。
(メリク様が、そうやって別れたいものの中に……もし『私』も入っていたら?)
入っているかもしれないと、何故一度も考えようとしなかったのか。
そもそもミルグレンはただ彼が好きだというだけで、彼のために何かをしてやれたわけではないのに。
(私は、むしろ迷惑ばかり掛けていた)
会いたいと騒いで、魔術学院の寮生活に移ったメリクを、無理に城へ呼び寄せたことも何度もあった。
ミルグレンが奔放なことをして、それはお前が止める役目であろうと、叔父であるリュティスから、彼が厳しく叱責されることだって何度もあった。
メリクが国を出奔するほど煩わしく思い遠ざけたかったものの中に、自分だってきっと入る。
自分だってメリクを追い込んだ一人なのだ。
何故気付かなかったんだろう。
勝手に良かれと思い込んで。
ありがとうなどと言ってもらえると思い込んで。
ミルグレンは両脚が震えた。
疲れではない。これは恐怖だ。
でも、もう出て来てしまった。
今頃国がどうなっているなど、考える余地もない。
今更帰ることなんか出来ない。
メリクに拒絶されることも有り得るのだという事実に気付き、その時ミルグレンは初めて怖くなったのだった。
(もしメリク様に拒絶されたら。
帰れって言われたら……。
迷惑な顔をされたら。
私は……どうすればいいんだろう?)
分からない。
それくらい根拠の無い独り善がりで、自分はこんな所まで来てしまった。
目まぐるしく考えるミルグレンの元に彼は近づいて来る。
怖い。
脚が動かない。何も言えない。
ミルグレンは立ち尽くす。
何故ここにいるのだと、
今すぐ国へ帰れと初めての、怖い顔で言われてしまったら。
――ふわ……、と包み込まれた。
ミルグレンは文字通り飛び上がる。
極限まで緊張していた心臓が弾けたのかと思った。
数秒後、自分がメリクに抱きしめられていることに気付いた。
幼い頃から知っている彼に抱き上げてもらったり、背負ってもらったり、頭を撫でてもらったり、抱きついた所を受け止めてもらったり……そういうことは何度もある。
でも彼に、こんなに強く力を込めて抱きしめられたことは初めてだった。
歩み寄って来たメリクは言葉よりも早く、ミルグレンの細い身体を両腕で包み込むようにして抱きしめていた。
まだ混乱の中にいたミルグレンの耳に届いた。
「……こんなに遠くまで、……一人で」
彼女を労るような、ひどく優しい声だった。
その一言でミルグレンは一瞬、過りかけた全ての不安から解放されていた。
涙が込み上げて来る。
堪えることもなくそれはぽろぽろと溢れ出した。
「……メリクさま……」
メリクの手がミルグレンの髪を優しく撫でてくれる。
「メリクさまぁっ……!」
夕暮れの街中で、ミルグレンはメリクの身体に抱きついたまま、顔を埋めて人目を憚らず泣き出したのだった。
会いたかった。
会いたかった。
会いたかったよと彼女は何度も、そう言った。
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