沈黙の回廊と、最後の言葉を持たない選択

序章:羊水の眠り

 ネオ・ルナリアの旧市街は、夕暮れから夜へと移り変わる、最も穏やかな時間帯を迎えていた。窓の外では都市の喧騒が遠い海の波のように聞こえ、アパートの室内には、ユキと私だけが作り出す、静謐な宇宙が広がっていた。


 私は今、愛する飼い主ユキの膝の上で、深く、深く眠っている。


 それは、単なる猫の休息ではなかった。数々の冒険と自己犠牲を経て、私の小さな身体と、その奥底に秘められた「人間の心」が、完全に調和した状態で迎え入れることのできる、至高の眠りであった。外界との境界線は、暖かな羊水のように緩やかに溶け合い、私の意識は物理的な身体の重さから解き放たれていく。


(ああ、これでいい。今は、ただ、許された休息を。)


 意識が沈み込むにつれて、ユキの温かい手のひらの感覚、毛並みを撫でる一定のリズムが、遠くの残響となって薄れていった。そして、私の精神は、猫の身体という檻を抜け出し、純粋なエーテルの粒子で構成された「沈黙の回廊」へと、解放された。


 周囲は透明な光に満ちていた。空間には色彩も音も存在せず、あるのは私自身の意識だけが放つ、静かな輝きであった。ここは、私が過去の記憶と未来への決意を基に創り上げた、魂の深淵である。


 そして、その光の中で、私は自らの意志で、拒絶し続けてきた姿を選び取った。


 猫の四肢が、しなやかな人間の四肢へと変わる。小さな身体が、失われた身長と重力を取り戻す。黒い毛並みは、長く艶やかな髪となり、私を定義づけていた金色の瞳は、かつての私自身の、意志の強い瞳へと戻った。


 私は、長らく封印していた「言葉を持つ力」と、「感情を直接表現できる身体」を取り戻した。


 私は、自身の掌を見つめた。その指先まで満ち溢れる、生々しいまでの「人間であることの感覚」。それは、ユキの膝の上で満たされる静かな愛とは異なる、自己を強く主張できる圧倒的な自由であった。


(私だ……この姿こそが、私の真の意識。そして、この空間こそが、私が言葉を持つことを許された、唯一の場所。)


 しかし、この完全な自由は、同時に最も危険な誘惑を伴う。


 言葉を交わせない切ない愛、自己犠牲の決意。それらはすべて、現実の猫の身体に留まることで初めて成立していた。今、この夢の中で、私はそれらの制約から解放された。


 そして、その回廊の奥、光の粒子が凝集する場所で、一人の人影が形作られ始めていた。


 私が最も愛し、そして最も解放を願った、あの灰色の瞳を持つ人物。


 私は知っていた。夢は、私の願望を映し出す鏡である。そして、この夢の中の彼は、私の最も深い願いを叶えるために現れるだろう。それは、「言葉による愛の成就」という、現実では永遠に選べない、究極の幸福であった。


 私は、震える唇で、自らの名前を心の中で呼びかけた。


 私はアオイだ。そして、私は今、最も甘美で、最も残酷な試練の入り口に立っているのである。


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