第5章:交差する視線
夜明けの光がアパートの窓から差し込む頃、ユキは穏やかに目覚めた。
目覚めたユキは、枕元に置かれたガラスの小瓶と、その隣に置かれた見慣れない光の欠片を不思議そうに見つめた。それは昨晩、自分が抱いていた激しい不安と涙が、まるで遠い夢であったかのように感じられた。
ユキは小瓶をそっと手に取り、アオイを抱き上げた。「アオイ、おはよう。あなたがこの綺麗な石を見つけたのね。ありがとう」
アオイは、心の中でユキの抱く不安が完全に消え去り、母との思い出に再び温かい「感情の光」が戻ったことを確認した。彼女の無言の介入は成功したのである。ユキはアオイを抱きしめながら、その日の古書店での仕事に、前向きな気持ちで向かうことができた。
アオイとユキが古書店に入ると、すぐに来客があった。
入店してきたのは、数日前に店を訪れた、「何を求めているのか思い出せない」と嘆いていたあの老人ではなかった。老人の代わりに来たのは、彼の孫娘であった。
「おばあちゃんの代わりに、お礼を言いに来ました」と、孫娘はユキに頭を下げた。「おじいちゃん、昨日突然、自分がずっと探していたのは、昔おばあちゃんに贈るはずだった詩集だったと思い出したんです。あれだけ深く落ち込んでいたのに、急に霧が晴れたみたいに……」
ユキは不思議に思ったが、「お役に立ててよかったです」と微笑んだ。アオイは窓辺の定位置で、そのやり取りを静かに見守っていた。シオンが映写機を停止させたこと、そしてアオイが後悔の思念を鎮めたことが、街の平和を取り戻した確かな証拠であった。
そして、その日の午後、扉が再び開いた。
入店してきたのは、黒い革ジャンに取材用カメラを提げた、シオンその人であった。
彼は古書店の奥まで入ってくることはなく、入り口の近くで立ち止まり、周囲を見渡している。彼の灰色の瞳は、店内にいるはずの「賢い黒猫」を探していた。
シオンはユキに声をかけた。
「すみません、この店で昨日、黒い猫を見かけませんでしたか? とても賢い猫で、少し話を聞きたいと思いまして」
ユキはシオンの顔を見て、彼の顔つきが変わったことに気づいた。彼の瞳には、以前彼がアパートに来た時にあった迷いや探求の影はなく、清々しい決意の光が満ちていた。
「ええ、いますよ。うちの子のアオイです」ユキは微笑み、窓辺を指さした。「アオイ、ご挨拶して」
アオイはユキの言葉に従い、静かに立ち上がった。彼女は、シオンの真っ直ぐな視線を受け止める。シオンはアオイを見て、目を細めた。
「君か。やはり、あの倉庫で僕を導いてくれたのは」シオンはそう言い、言葉を続けた。「ありがとう。君のおかげで、僕は最高の記事を書くことができた。そして……大切な何かを思い出すことができた気がする」
シオンは、アオイの頭を撫でようと手を伸ばした。アオイは、その手が触れる直前で、一歩だけ身を引いた。
「賢い猫」として、シオンの感謝は受け取る。しかし、彼は、アオイがかつてエーテル界で「愛を言葉にしなかった伴侶」であることを、永遠に知ってはならない。
アオイは、シオンとユキの間に割って入るように、ユキの足元にそっと寄り添った。
ユキは、シオンに微笑みかけた。「アオイは私にとって特別な家族ですから。賢いのは昔からです」
シオンとユキ。二人の人間は、アオイを介して初めて言葉を交わした。アオイは、この光景こそが、彼女が守りたかった「新しい物語の結実」であると理解した。シオンは救われ、ユキは幸せだ。そして、愛は言葉にならずとも、この空間に確かに存在している。
シオンはユキに古書に関する質問をいくつかした後、満足そうに店を後にした。彼は、猫に感謝を伝えた達成感と、ユキという優しい人物に出会えたことで、心からの幸福感を抱いていた。
アオイは、シオンの背中が遠ざかるのを窓辺から見つめた。これで、彼女の最後の任務は完了した。
愛する人を現実に解放し、彼の人生に希望の光を与えた。そして、自分は愛する人の最も大切な人に寄り添う。これこそが、彼女が選んだ愛の物語の、最も静かで、最も強い結末であった。
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