第4章:ユキの涙とガラスの小瓶

 シオンの助けを借りて映写機を停止させたアオイは、任務完了の安堵とともに、急いでユキの元へと戻った。倉庫でシオンに頭を撫でられた余韻が、胸の中で微かな温もりとなって残っている。


 しかし、古書店に戻ると、アオイの心は一転して凍り付いた。


 古書店は静まり返り、ユキの姿が見当たらない。棚の裏の休憩スペースに目をやると、ユキが小さな毛布にくるまり、声を押し殺して泣いている姿があった。


「ユキ……?」


 アオイの心は激しく脈打った。彼女が最も恐れていた事態、すなわち「記憶の霧」によるユキへの侵食が始まっていたのだ。シオンとの共闘で映写機は停止したが、霧の残滓はまだ街の空気中に残っており、ユキの心にまで達していた。


 アオイが慌ててユキのそばに駆け寄ると、彼女はアオイを抱きしめ、嗚咽を漏らした。


「アオイ……ごめんね、私、なんだか急に不安になってしまって……」

 ユキは泣きながら、自分の母に関する小さなガラスの小瓶を握りしめていた。その小瓶には、幼い頃に母と海で拾った、小さな砂が入っている。


「母との思い出は、全部ここにあるはずなのに。なんだか、その思い出が、ただの古い記憶に変わってしまう気がして……」


 アオイは、その言葉を聞いて戦慄した。これが「記憶の霧」の作用であった。霧は思い出そのものを消すのではなく、それに付随する「感情的な光」を奪い去る。光を失った記憶は、ユキにとって何の価値もない、無機質な情報へと成り下がり、やがては風化してしまうだろう。


 ユキの笑顔こそが、アオイをこの現実に繋ぎ止める「揺るぎない錨」であった。その錨が揺らぎ始めていることに、アオイは激しい怒りと焦りを感じた。シオンへの愛が自己犠牲へと昇華したように、ユキへの愛は、彼女を守り抜くという絶対的な決意へと変わった。


 アオイはユキの腕から滑り落ちると、倉庫から持ち帰った、映写機の制御盤からこぼれ落ちた「光の欠片」を思い出した。


 映写機を停止させた際、残留思念は消滅したが、その記録媒体に記録されていた人々の「愛されたい」という純粋な願いが、光の粒子となってわずかに残っていた。これは、記憶を破壊する霧に対抗できる、エーテル的な安定剤の役割を果たすはずである。


 ユキの涙が、アオイの焦燥を駆り立てる。


 私はこの光の欠片を、一刻も早くユキの心に近づけなければならない。


 アオイは、猫の口にくわえるには少し大きすぎるそのガラスの欠片を、懸命に咥え込んだ。小さな光の欠片は、ユキの母の思い出の小瓶のように、キラキラと輝いている。


 猫の身体には負担がかかるが、アオイは迷わなかった。


 古書店から、夜のネオ・ルナリアの路地裏を、一匹の黒猫が小さな光の小瓶を咥えて疾走する。その光は、猫の愛の決意そのものであった。


 アパートに戻ると、ユキはすでに疲れ果てて眠っていた。彼女の顔には、まだ涙の痕が残っている。


 アオイは、そっとベッドに飛び乗ると、咥えてきた光の欠片を、ユキが握りしめているガラスの小瓶の隣に置いた。


 アオイの「人間の心」から溢れ出るユキへの愛の感情が、光の欠片を通してユキの意識へと流れ込んでいく。それは静かなテレパシーであり、言葉のない「大丈夫だよ」という強いメッセージであった。


 光の欠片は、ユキの感情的な記憶に再び輝きを取り戻させ、霧による侵食を防ぐための、見えないバリアとなった。


 アオイは、任務完了を確信し、満足げにユキの枕元で丸くなった。愛する人を守り抜いた喜びと、猫としての無力感。その相反する感情が、彼女の心を静かに満たしていた。


 これで、ユキは大丈夫だ。そして、街の霧もやがて晴れるだろう。あとは、この物語の最後の仕上げを残すのみである。


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