第10章:星の湖

 光の膜を抜けた瞬間、アオイとシオンの視界が開けた。


 そこは「星の湖」としか形容できない、広大で幻想的な場所だった。湖面は夜空を映した鏡のように輝き、星のような光の粒が水面を漂っている。空は紫と青が溶け合い、無数の光点が揺らめいていた。


 湖の周囲には、ガラスのように透き通る木々が立ち並び、風が吹くたびに微かな音を立てる。アオイの鼻がひくつき、甘い花の香りと水の清涼な匂いが混じる空気を捉えた。彼女の耳は、湖面に落ちる光の粒が立てるかすかな音や、遠くで響くユキの声を拾っていた。


「ここ……めっちゃ綺麗……」


 アオイはつぶやき、湖面に近づいた。彼女の姿が水面に映り、猫のように鋭い瞳が星の光を反射する。人間の身体なのに、動きには猫のしなやかさが残っていた。


 彼女は湖面に手を伸ばし、冷たい水に触れた。


 瞬間、波紋が広がり、記憶の映像が水面に浮かんだ。――猫としてユキの膝の上で丸まる姿。彼女の笑顔、温かい手、星空を見上げる穏やかな夜。映像は鮮明で、アオイの胸を締め付けた。


「アオイ、なんか見えた?」


 シオンがそばにしゃがみ、湖面を覗き込んだ。彼の灰色の瞳が星の光を映し、心配そうにアオイを見つめた。


 *


「ユキ……私の飼い主。こんな風に一緒にいたの、思い出した」


 アオイの声は震え、涙が湖面に落ちて波紋を広げた。


「星空見て、ユキが本を読んでくれて……」


 シオンは静かに頷き、彼女の肩に手を置いた。


「それ、いい記憶だな。エーテル界は過去を映すって話だったから、ユキに近づいてるのかもな。けど、この場所、なんか変な感じするぜ。デバイスもまだ使えねえ」


 彼はデバイスを手に、スキャンを試みたが、画面は乱れたままだった。


(素晴らしい舞台だ、アオイ。星の湖は君の感情を映す鏡だ。ユキとの記憶は物語の核心――これを活かせば、クライマックスは完璧になる)


 クロノの声が頭の中で響き、アオイは眉をひそめた。影猫の警告――「クロノは君の物語を盗む者だ」――が頭をよぎり、彼女の不信感はさらに強まった。クロノの言葉はいつも彼女の感情を「物語の素材」として扱い、まるで彼女の心を操っているようだった。


「クロノ、なんでいつも『物語』って言うの? 私の記憶、ユキへの想い……それ、ただの素材じゃないよ! 私の心なんだから!」


 アオイは心の中で叫んだ。クロノの声は一瞬沈黙し、冷たく笑った。


(心? アオイ、君の心は物語の燃料だ。感情が強ければ強いほど、物語は輝く。私はそれを整理し、完璧な形にするだけだ。ほら、湖面を見てみろ。君の過去が待っている)


 *


 アオイは湖面を見つめ、深呼吸した。水面に新たな映像が浮かんだ。――ユキがアオイを抱き、星空を見上げながら囁く。「アオイ、ずっと一緒にいようね」。彼女の声は柔らかく、温かかった。


 だが、映像は突然暗転し、事故の衝撃がアオイを襲った。冷たい地面、遠ざかるユキの声、暗闇に沈む意識。映像は鮮明すぎて、まるでクロノが編集した映画のようだった。


「ユキ……」


 アオイは湖面に手を伸ばし、涙が再び落ちた。彼女の胸に、ユキを探す決意が燃えた。


「アオイ、大丈夫か? また何か見た?」


 シオンが心配そうに声をかけ、彼女のそばにしゃがんだ。アオイは涙を拭い、頷いた。


「ユキの名前、思い出した。彼女、私を待ってるかもしれない。シオン、私、絶対ユキを見つける!」


 シオンの灰色の瞳が真剣に彼女を見つめ、静かに笑った。


「いいぜ、アオイ。ユキがそんな大事なやつなら、俺も最後まで付き合うよ。この湖の奥、きっと何かあるぜ」


(見事な決意だ、アオイ。君の執着は物語の推進力だ。ユキの名前は鍵――星の湖を進めば、答えが見つかる)


 クロノの声は興奮気味だったが、アオイは無視した。彼女はシオンと並び、湖の周囲を歩き始めた。湖面の光が揺れる中、彼女の猫の感覚が疼いた。甘い花の香りが強くなり、ユキの香水を思い出した。彼女は直感に従い、湖の奥へ進んだ。


 *


 湖の対岸に、ガラスの木々が密集する場所が見えた。


 そこには、光の膜が揺らめき、かすかなユキの声が響いていた。「アオイ、いい子ね」。アオイの心臓が跳ね、彼女は走り出した。シオンが慌てて後を追う。


「待てよ、アオイ! 無茶すんな!」


「ユキが呼んでる! シオン、ついてきて!」


 アオイの足は猫のしなやかさで地面を蹴り、湖面の光を突き抜けた。木々の間に光の膜が広がり、ユキのぼやけた姿が映った。彼女はアオイを呼び、涙を流していた。「アオイ、どこ?」


 アオイは光の膜に手を伸ばし、叫んだ。


「ユキ! ここにいるよ!」


 だが、映像は消え、代わりに強い光が彼女を包んだ。瞬間、身体が浮くような感覚に襲われ、視界が白く染まった。アオイは湖の中心に立っていた。湖面に映る彼女の姿は、猫と人間が混ざり合ったように揺らめいていた。


「アオイ! どこだ!?」


 シオンの声が遠くから聞こえ、アオイは振り返った。彼は木々の間から駆け寄り、彼女の肩を掴んだ。


「急に消えたから、びびったぞ! 何か見た?」


「ユキ……彼女、私を探してる。シオン、私、絶対ユキを見つけるよ。クロノに操られても、絶対に!」


 *


 アオイの瞳は決意に燃え、シオンは頷いた。


「いいぜ。なら、この湖の奥に行くしかないな。クロノが何企んでても、お前ならやれるよ、アオイ」


(素晴らしいクライマックスだ、アオイ。君の決意は物語の核心だ。だが、気をつけろ。私の編集がなければ、君の心は混乱に飲み込まれるぞ)


 クロノの声は冷たく、アオイは無視した。彼女はシオンと並び、湖の奥へ進んだ。星の湖の光が揺れる中、彼女の心はユキへの想いで燃えていた。だが、クロノの言葉と影猫の警告が頭をよぎり、彼女は自分の記憶を信じていいのか、迷い始めていた。


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