第1章:目覚めの街
ネオ・ルナリアの市場は、まるで生き物のようにうねっていた。
屋台の光が濡れた地面に反射し、スパイスの香りと機械油の匂いが混ざり合う。
アオイは雑踏の中を縫うように歩きながら、鼻をひくつかせた。魚の焼ける匂い、腐った果物の甘酸っぱさ、遠くで漂う煙草の煙――すべてが彼女の感覚を刺激し、記憶の断片を揺さぶった。
彼女は立ち止まり、屋台の隙間から空を見上げた。ガラス塔の間に浮かぶホログラム広告が、星の代わりに瞬いている。
「にゃ……っと、違う!」
アオイは自分の声にハッとし、思わず口元を押さえた。人間の言葉を話しているはずなのに、猫の鳴き声が混じる癖が抜けないのだ。
周囲を見回すと、通りすがりの商人が怪訝な目を向けていた。
恥ずかしさがこみ上げ、彼女はフードを深くかぶって歩みを速めた。
(面白い反応だ、アオイ。君の戸惑いは物語に良い味を加える)
頭の中でクロノの声が響いた。低く、どこか冷笑的な響きだ。
「やめてよ、勝手に私の頭で喋らないで!」
アオイは小声で抗議したが、クロノは意に介さない。
(私は君のゴーストライターだ。君の感情、行動、すべてが私の素材。ほら、市場の喧騒はどうだ? 主人公の最初の試練にふさわしい舞台じゃないか?)
*
「試練? 私はただ……ここにいるだけなのに」
アオイは唇を噛み、雑踏を抜けて路地の影に身を寄せた。
指が無意識に服の裾を握りしめる。猫だった頃、狭い場所に隠れると安心できたからだ。
だが、今は人間の身体――長く、不器用で、どこか頼りない。アオイは自分の手を見つめ、爪を立ててみた。鋭い爪はない。代わりに、柔らかな指先が震えた。
市場の喧騒を抜けると、細い通りが現れた。ネオ・ルナリアの輝きから取り残されたような空気が漂う。
アオイは立ち止まり、古びた屋台の一つに目を奪われた。そこには色とりどりのガラス瓶が並び、中に光る液体が揺れている。
売り子の老婆が彼女に気づき、しわがれた声で呼びかけた。
「嬢ちゃん、運命の雫はいかが? 過去も未来も映し出すよ」
アオイは一瞬、目を輝かせた。
(陳腐な売り文句だ。だが、物語のきっかけとしては悪くない。何か買ってみるか?)
クロノの声が割り込む。
「そんなお金ないよ……」
ポケットを探ったが、何も出てこない。アオイは、自分が何者か、どこから来たのかすら知らないのだ。
老婆が肩をすくめ、別の客に目を移した。
その時、屋台の裏で何かがカサリと動いた。アオイの耳がピクリと反応し、反射的に身を低くする。猫だった頃、物音は危険か好奇心のどちらかを意味した。
彼女の目は暗がりを貫き、ゴミ箱の陰で動く影を捉えた。
*
「誰!?」
アオイの声は鋭く、しかしどこか震えていた。市場の喧騒が遠のき、彼女の心臓がドクドクと脈打つ。
(落ち着け、主人公。脇役の登場だ。物語にスパイスを加える瞬間だぞ)
クロノの声が頭の中で響き、アオイは眉をひそめた。
「スパイスって何? 私はただ、放っておいてほしいだけなのに……」
だが、クロノの声は無視するように軽快に続いた。
(放っておく? それは物語の主人公として怠慢だ。さあ、影を追え。面白い展開が待っている)
アオイはため息をつきながら、ゴミ箱の陰に近づいた。
そこにいたのは、ぼろぼろのジャケットを羽織った少年だった。歳はアオイと同じくらい、15か16歳だろうか。髪は乱雑で、灰色の瞳がネオンの光を反射している。
彼はアオイを見ると、驚いたように一歩後ずさった。
「なんだ、ただの女か……。何か用?」
少年の声はぶっきらぼうだったが、どこか警戒心に満ちていた。
アオイは彼の目を見つめ、なぜか懐かしさを感じた。まるで、猫だった頃に見た、飼い主の優しい視線を思い出すような。
「私は……迷ってる、かも」
アオイは少年の言葉を思い出し、つぶやいた。自分でも何を言っているのかわからなかったが、言葉は自然にこぼれた。
*
少年は鼻を鳴らし、彼女をじろじろと見た。
「迷ってる? この街で迷うやつは、よそ者か、よっぽどのバカだ。ネオ・ルナリアは簡単には人を飲み込まないぜ」
彼はそう言うと、ポケットから小さなデバイスを取り出し、指で弄んだ。デバイスは古びた金属製で、画面に細かなひびが入っていた。
「名前は?」
「アオイ……だと思う」
自分の名前を口にしながらも、アオイはなぜか確信が持てなかった。
(良い名前だ、アオイ。物語の主人公にふさわしい。さて、この少年は誰だ? 彼の役割を定義しよう)
クロノが頭の中で補足する。
「うるさいよ、クロノ!」
アオイは思わず声を上げ、少年が怪訝な顔をした。
「クロノ? 誰だよ、それ」
「え、なんでもない! ただの……頭の中の声、みたいな?」
アオイは慌ててごまかしたが、少年はさらに眉をひそめた。
「シオンだ」
少年は名乗ると、デバイスをポケットにしまい、アオイに背を向けた。
「ついてこい。迷ってるなら、少なくともドローンの監視から逃れる場所くらい教えるよ」
アオイは一瞬迷ったが、シオンの背中が市場の雑踏に消えそうになり、慌てて後を追った。彼女の足取りは軽く、まるで屋根の上を飛び跳ねる猫のようだった。
*
市場を抜け、細い路地をいくつか曲がると、ネオ・ルナリアの裏側が姿を現した。
光沢のあるガラス塔の影に隠れた、錆びた鉄骨と廃材の山。そこには、都市の輝きから取り残された人々がひっそりと暮らしていた。
シオンは廃材の陰に腰を下ろし、アオイに手招きした。
「ここなら、監視ドローンも来ない。で、何者なんだ、お前? よそ者っぽいけど、ただの浮浪者じゃなさそうだ」
アオイは地面にしゃがみ込み、膝を抱えた。猫だった頃、こうやって丸まると安心できたのだ。
「私も……よくわからない。目覚めたらここにいて、頭の中に変な声が聞こえてきて……」
「変な声、ね。頭おかしいってわけじゃないよな?」
シオンは笑ったが、アオイの真剣な表情を見て、すぐに真顔に戻った。
(興味深い展開だ。脇役のシオンは、君のガイド役になるかもしれない。アオイ、話を進めるなら彼に質問だ。都市の秘密、君の過去、物語の鍵――何か手がかりを握っているはずだ)
クロノの声が再び響き、アオイはイラッとした。
「勝手に進めないでよ! 私はただ、自分が何者か知りたいだけなのに……」
*
彼女はつぶやき、シオンが首を傾げる。
「またそのクロノってやつ? お前、ほんとに大丈夫か?」
「大丈夫……だと思う。ねえ、シオン、この街のこと、教えて。なんか、変な場所な気がするの」
アオイの言葉に、シオンはふっと笑った。
「変な場所? そりゃその通りだ。ネオ・ルナリアは光と影の街だよ。表は技術と金で輝いてるけど、裏じゃ貧しいやつらが這ってる。で、噂話もある」
「噂?」
アオイの目が輝いた。猫の好奇心が疼く。
「エーテル界って知ってるか? 夢と現実が交錯する場所。そこに行けば、自分の過去も未来も見えるって話だ。俺も詳しくは知らないけど……なんか、お前みたいなやつには関係ありそうじゃね?」
シオンの言葉に、アオイの心が波立った。エーテル界。なぜかその言葉は、彼女の胸の奥で響いた。
(素晴らしい! 物語の目的が明確になったぞ、アオイ。エーテル界への旅――これが君の冒険の第一歩だ。さあ、シオンに食い下がれ。もっと情報を引き出せ)
クロノの声は興奮気味だったが、アオイは無視してシオンを見つめた。
「そのエーテル界、どうやっていくの?」
シオンは肩をすくめ、デバイスを再び取り出した。
*
「簡単じゃない。地下図書館に古い記録があるらしいけど、そこに行くにはドローンを掻い潜る必要がある。興味あるなら、ついてこいよ」
彼は立ち上がり、路地の奥へ歩き始めた。
アオイは一瞬躊躇したが、シオンの背中を見つめ、決意を固めた。
彼女の足音は軽く、まるで夜の屋根を駆ける猫のようだった。
市場の喧騒が遠ざかり、ネオ・ルナリアの深い闇が彼女を飲み込んでいく。
(良い選択だ、アオイ。物語はここから始まる。さあ、どんな冒険が待っているかな?)
クロノの声が、静かに囁いた。
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