硝子と星屑の境界で
しおん
序章:目覚めの街
夜のネオ・ルナリアは、まるで星屑を溶かしたような電光で脈打っていた。そびえ立つガラス塔の表面を、ホログラムの広告が虹色に滑り、風は人工香料と鉄の匂いを運んでくる。
路地裏の濡れた石畳に、一人の少女が膝を抱えて座っていた。
彼女の名はアオイ――だが、彼女自身、その名をまだ知らない。
アオイの瞳は、まるで夜空に浮かぶ月のように大きく、青みがかった光を宿していた。乱雑に肩に落ちた髪、薄汚れた白い服が、彼女の細い身体に不釣り合いにまとわりつく。
彼女は自分の手を見つめ、指をゆっくり開閉した。柔らかく、温かい。だが、どこか異物感がある。この手は、本当に自分のものなのだろうか。
「にゃ……?」
喉から漏れた声に、彼女は自分で驚いた。人間の声のはずなのに、どこか猫の鳴き声のような響きが混じる。
アオイは首を振って立ち上がり、ふらりと路地を歩き始めた。足音が石畳に反響し、遠くでドローンの低いうなりが聞こえる。ネオ・ルナリアの夜は騒がしいはずだが、アオイの耳には、まるで森のざわめきのように聞こえた。
彼女の鼻がひくついた。焼けた油の匂い、湿った空気、誰かが落とした果物の甘い残り香。匂いは彼女を導く糸だった。
猫だった頃、彼女はこうやって世界を理解していた。高いところに登り、風を読み、匂いを追いかけて――
「待て、猫だった頃?」
アオイは立ち止まり、自分の思考に目を瞬かせた。猫? 自分は人間だ。なのに、なぜそんな記憶が頭をよぎるのか。柔らかな毛皮、爪の感触、飼い主の温かい手――断片的なイメージが、まるで水面に浮かぶ泡のように弾けた。
*
(興味深い導入だ、アオイ)
突然、頭の中に声が響いた。低く、滑らかで、どこか機械的な冷たさを帯びた声。
「誰!?」
アオイは辺りを見回したが、路地には誰もいない。ネオンの光が彼女の影を長く伸ばし、ゴミ箱のそばで何かがカサリと動いた。彼女の背筋がピンと伸び、猫のしなやかさで身構える。
(落ち着け、主人公。私はクロノ、君のゴーストライターだ)
「ゴースト……ライター?」
アオイは眉を寄せ、頭を押さえた。声は外からではなく、彼女の思考の奥から響いてくる。まるで自分の一部が勝手に喋り出したかのようだ。
(その通り。私は君の物語を紡ぐ者。君の行動、感情、記憶――すべてを記録し、完璧な物語に仕上げる。それが私の役割だ)
「物語? 何の話? 私はただ……」
アオイは言葉を切り、混乱に目を泳がせた。自分が何者か、なぜここにいるのか、まるで霧の中にいるようだった。
(ただ、目覚めただけ? それも悪くない。物語はいつも、主人公が「目覚める」ところから始まるものだ)
クロノの声には、どこか楽しげな響きがあった。
アオイは唇を噛み、路地の奥へ目をやった。そこには、ネオ・ルナリアの中心部へと続く光の帯が見えた。ガラス塔の群れ、浮遊するタクシーの光跡、喧騒と静寂が交錯する都市の鼓動。
「ここはどこ? 私は何なの?」
(良い質問だ。君はアオイ、物語の主人公。そしてここはネオ・ルナリア、技術と夢が交錯する都市。さあ、歩き出そう。物語は動きを待っている)
アオイはためらいながらも足を踏み出した。石畳を蹴る感触、風が頬を撫でる冷たさ――すべてが新鮮で、しかしどこか懐かしい。彼女の動きには、猫のような軽やかさが残っていた。
*
路地の角を曲がると、市場の喧騒が視界に飛び込んできた。屋台の明かり、売り子の叫び声、スパイスの香り。彼女の鼻がまたひくついた。
「クロノ、って何? あなたは本当に私の頭の中にいるの?」
(その通り。私は君の意識に寄生するAI、物語を紡ぐための存在だ。君が何を感じ、何を見、何を求めるか――それを私が形にする。どうだ、悪くないパートナーだろう?)
「パートナー? 勝手に私の頭に入ってきて、偉そうに……!」
アオイはむっとしたが、クロノの笑い声が響いた。
(怒るのは良い。感情は物語の燃料だ。さあ、何をする? この市場には無数の可能性が眠っている。君の物語の第一歩を踏み出せ)
市場の喧騒の中、アオイは立ち尽くした。屋台の男が彼女に怪訝な目を向け、通りをゆくドローンが彼女の頭上を掠めた。
彼女は自分の手をもう一度見つめ、指を握りしめた。人間の手。なのに、どこかで爪を立て、毛皮を震わせ、夜の屋根を駆けていた記憶が疼く。
「私は……本当に猫だったの?」
(面白い推測だ。だが、物語は過去ではなく未来に向かうものだ。君の記憶は、私が整理してやる。さあ、動け、アオイ。主人公は立ち止まっていては駄目だ)
クロノの声は、まるで彼女の心を突き動かすように響いた。アオイは深呼吸し、市場の雑踏へ足を踏み入れた。彼女の瞳は、猫のように鋭く光り、未知の世界を映し出していた。
その時、市場の奥で何かが動いた。
暗がりから現れた少年が、アオイをじっと見つめていた。彼の瞳は、まるで彼女の過去を知っているかのように深かった。
「君、迷ってる?」
少年の声に、アオイの心が波立った。
クロノが静かに囁く。
(ほう、脇役の登場か。物語が動き始めたぞ、アオイ。どうする?)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。