第14話 小さな家族
庵の暮らしにも、少しずつ春の気配が混じり始めた頃だった。
凍てついていた土からは、微かに草の芽が顔を出し、日差しは日ごとに柔らかさを増していく。
庵の周囲の木々も、冬の間に硬く閉ざされていた枝先に、淡い緑色の蕾をつけ始めていた。
宵は桂火と共にこの山間の庵で静かに日々を重ねていたが、もう一人――小さな少女もそこにいた。
年の頃は七つか八つ。
まだあどけなさが残る顔立ちだが、透き通るような黒髪に、鋭くも憂いを帯びた琥珀の瞳。
まだ幼いのに、どこか大人びた表情を浮かべることが多かった。
その小さな背中には、幼いながらも多くの苦難を経験してきたであろう影が宿っていた。
庵に来た当初、鈴羽は宵を見ても挨拶すらしなかった。
宵が優しく声をかけようとすると、まるで怯える小動物のように、さっと身を引いてしまう。
遠巻きに見つめては、桂火の背後に隠れる。時には、そっぽを向いて座敷の隅にうずくまることもあった。
その姿は、誰かに心を開くことを恐れているかのようだった。
「……あの子、私のこと、嫌いなのでしょうか」
ある日、そっと呟いた宵に、桂火は焚き火を見つめたまま言った。
「嫌ってるんじゃねぇ。ただ、警戒してんだ……今まで、あんまり『大人』にいい目を見てこなかったんだろう」
その言葉を聞いて、宵は胸の奥がちくりと痛んだ。
王宮で冷遇され、白羽山でも見捨てられた自分と、どこか重なる部分を感じたからなのだと感じた。
同じように、誰にも心を許せず、孤独を抱えてきた痛みが、彼女の心を揺さぶる。
自分もまた、誰かの『都合』で祈らされ、生き方を決められてきた。
誰にも心を許せず、孤独を抱えてきた。
鈴羽も、似たような孤独を知っているのだろうか――そう思うと、どうしても他人には思えなかった。
彼女を放っておく事など、宵にはできなかった。
その日から、宵は無理に話しかけるのをやめた。
言葉で距離を縮めようとするのではなく、ただ静かに、彼女の傍らに寄り添うことを選んだ。
鈴羽が安心できるよう、ゆっくりと、しかし確実に距離を詰めていく。
代わりに、鈴羽のそばで縫い物をしたり、読み書きの練習を始めたりした。
宵が針を動かす音、紙に筆を走らせる音が、静かな庵に心地よく響く。
鈴羽は、最初は興味なさげに見ていたが、次第にその小さな瞳が宵の手元に釘付けになっていくのが分かった。
膝の上で針を動かしながら、自然な調子で呟くように言葉を紡いでいく。
「『雪』は、『ゆ』に『き』って書くの。ね、簡単でしょう?この文字は、空から降る雪みたいに、きらきらしているわ。えっと……鈴羽ちゃんも、書いてみる?もしよかったら、わたしと、一緒に練習しない?」
最初は何も返ってこなかったが、ある日、鈴羽が手元の紙にそっと指を置いた。
その指先が、微かに震えている。
「……『風』は?」
「『かぜ』ね。『風』は……そう、こう書くのよ。風は目には見えないけれど、こうして木々を揺らしたり、鈴羽ちゃんの髪を優しく撫でたりするでしょう?目に見えなくても、確かにそこにあるものなのよ。私たちの心も、きっとそうね」
宵が優しく手を添えると、鈴羽の細い肩が少しだけ震える。
その震えは、警戒心からくるものだが、同時に、彼女が宵の温かさに触れようとしている証でもあった。
小さな指が、宵の指先に触れ、微かな温もりが伝わる。
でも、それ以上逃げようとはしなかった。
むしろ、その小さな手が、宵の指先をそっと追いかけるように動いた。
それが、ふたりの関係が少しだけ変わった瞬間だった。
小さな、しかし確かな心の交流が始まった瞬間。氷のように閉ざされていた鈴羽の心に、微かな亀裂が入ったかのようだった。
ある夕方、庵の縁側で日向ぼっこをしていた時、春の夕陽が山々を淡い橙色に染め、柔らかな風が木々を揺らしていた。
鳥たちの囀りが遠くから聞こえ、穏やかな時間が流れる。
宵が縫いかけの布を膝に広げていた隣で、鈴羽がぽつりと呟いた。
「……おねえさまって、あったかい匂いがするの」
針を動かしていた手が止まってしまう。
宵はそれを聞いて、驚いたまま鈴羽を見下ろした。
「……え?私の匂い、どんな匂いがするの? 変な匂いかしら?もし嫌な匂いだったら、言ってくれていいのよ?」
鈴羽は膝を抱えたまま、遠くの空を見つめている。
その琥珀の瞳は、夕陽の色を映し、きらきらと輝いていた。
「お日さまみたい……あったかくて、すーってする匂い。あとね、おねえさまの髪、きらきらするの。雪みたいに、きれい。おねえさまは、お日さまと雪、両方みたい。だから、おねえさまの傍にいると、なんだか安心するの」
そう言って、ふにゃりと笑う鈴羽の笑顔は、まるでその『お日さま』そのもののようだった。
曇りのない、純粋な笑顔――その無垢な輝きが、宵の心を強く打った。
宵は、返す言葉を見つけられずに、ただ鈴羽の髪にそっと手を置いた。
その指先が、柔らかな黒髪の感触を確かめる。
鈴羽の髪は、太陽の温もりを吸い込んだかのように、ふんわりと温かかった。
その柔らかな髪に触れながら、胸の奥がじんわりと温まっていく。
それは、王宮の冷たい空気の中で忘れかけていた、心の奥底からの温かさだった。
まるで、凍っていた心が、ゆっくりと解凍されていくような感覚。
(……わたしが、今、誰かの傍にいる)
今までは、誰かの命令で傍に置かれ、神子として必要とされてきた。
その存在は、常に役割と義務に縛られていた。彼女の価値は、常に他者によって定められていたのだ。
けれど今、目の前の少女は、自分の意志で――自分を『おねえさま』と呼んでくれた。
何の打算もなく、ただ純粋な気持ちで。
それは、宵が初めて、役割ではない『自分自身』として受け入れられた瞬間だった。
名前ではなく、肩書でもなく。ただ、自分の存在にぬくもりを感じてくれたのだ。
その事実が、宵の心に、かけがえのない喜びをもたらしたのだった。
「……ありがとう、鈴羽ちゃん。そう言ってくれて、おねえちゃんは本当に嬉しいわ」
自然と、宵の目尻に熱がにじんでいる。
温かい雫が、瞳の縁に浮かぶ。
それは、喜びと、そして過去の孤独が癒されていく安堵の涙だった。
それでも笑みを浮かべながら、彼女はもう一度、そっと鈴羽の背を撫でた。
「おねえさま、泣いてるの?痛いの?どうして?」
「ううん……ちょっと、うれしくてね。鈴羽ちゃんが、そう言ってくれて……おねえちゃんは、とても嬉しいのよ。こんな風に、誰かに温かい言葉をかけてもらえるなんて、思ってもみなかったから。鈴羽ちゃんが、おねえちゃんの心を温めてくれたのよ」
その日、宵の胸の奥に、小さな灯がともった。
それは神託でも、加護でもない。
誰かの傍で、誰かと暮らすという、静かな灯。
春の陽射しのように、じんわりとあたたかく、心を照らしてくれる光だった。
そして、彼女が再び『人』として生きるための、確かな一歩。
それは、彼女が失ったと思っていた『自分』を、再び見つけ出すための、希望の光でもあったのである。
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