第13話 市の手のぬくもり
ある日、桂火に連れられ、宵は山間の
庵での暮らしにも慣れ、心は少しずつ穏やかになっていたが、人混みの中へ出るのは、王宮を追われて以来初めてのことだった。
彼女の胸には、かすかな期待と、それ以上の不安が入り混じっていた。
町の市場は、人々の活気に満ち溢れていた。
湯気の立つ屋台からは香ばしい匂いが漂い、熱気と喧騒が渦巻く。
焼きたての魚の匂い、甘い菓子の香り、そして人々の話し声や笑い声、子供たちの楽しそうな声が響き渡る。色とりどりの布地が風にはためき、新鮮な野菜や魚が威勢のいい声で売られている。
そこには、王宮の冷たい空気や、
宵は、その全てに目を奪われ、彼女の瞳は、まるで初めて見る世界に触れるかのように、きらきらと輝いていた。
「……すごい……」
宵は思わず、小さな声で呟く。
その声は、驚きと、そして微かな感動に満ちていた。
彼女の口元には、いつの間にか、自然な笑みが浮かんでいた。
「ここが、町の市場……こんなにも、人がいるのですね。こんなに、生き生きとした場所があるなんて……」
桂火は、そんな宵の様子を横目で見て、小さく笑う。
その表情には、どこか満足げな色が滲んでいた。
「ああ。毎日こんなもんだ。朝から晩まで、活気があるだろう?王都の市場もこれくらい賑やかだが、ここはもっと、人々の息遣いが近い」
「はい……王宮とは、まるで違います」
宵が思い出す王宮の廊下は、常に静まり返り、人の気配は希薄だった。
侍女たちの足音すら響かせないよう、細心の注意が払われる場所。
活気とは無縁の、冷たく、閉ざされた空間。
だが、ここは、人々の息遣いが直接感じられる場所だった。
誰もが自由に声を上げ、笑い、生きている――その光景は、宵にとって、あまりにも眩しかった。
雑踏の中を歩くうち、宵はふと、人々の波に迷いそうになった。
王宮では常に侍女が傍らに控え、人混みの中に一人で立つことなどなかったからだ。
不安に足がすくみそうになったその時、桂火がさっと宵の手を握る。
彼の掌は、温かく、そして力強い――その温もりが、宵の冷え切った指先にじんわりと伝わる。
凍てついていた指先から、ゆっくりと温かさが全身に広がるのを感じた。
「離れんなよ。あんたが消えたら、困るからな。この人混みじゃ、はぐれたら見つけらんねぇ。それに、あんたはまだ、こういう場所に慣れてないだろうから」
ただそれだけの一言。彼の声は、いつもと同じ、飾り気のないものだった。
しかし、その手は、強くも弱くもない、ただ『ここにいる』ための手だった。
宵を支配しようとする力も、彼女を憐れむような優しさもない。
ただ、隣に立つ存在として、自然に差し出された手。
その温かさが、宵の心にじんわりと染み渡った。
それは、彼女がどれほど孤独であったかを、改めて教えてくれるような温かさだった。
宵はしばらくその手を見つめてから、そっと握り返す。
彼女の指が、桂火の掌に絡む――その瞬間、宵の胸に、かつてないほどの安堵が広がった。
(この手は、私を所有するためのものじゃない)
嘗ての夫だった明照の隣にいた頃、彼の掌は常に冷たかった。
そして、その手は、宵を『王家の道具』として扱うためのものであり、神子としての役目を果たせなければ、容易く切り捨てる――その冷酷さを、宵は身をもって知っていた。
彼の触れる手は、常に彼女に役目を思い出させ、その重圧で心を縛りつける。
それは、彼女の存在意義を問い、常に不安を煽る手だった。
しかし、桂火の手は違った。
そこには、彼女を『神子』として崇める畏敬も、『子を産む器』として扱う打算も、一切感じられない。
ただ、目の前の『宵』という一人の人間を、大切に思ってくれる温かさだけがあった。
それは、彼女の存在を、何の条件もなく受け入れてくれる、純粋な温もりだった。
まるで、彼女がこれまで背負ってきた重荷を、そっと下ろしてくれるかのような、解放感をもたらす手だった。
「……桂火さん」
宵は、小さな声で彼の名を呼んだ。
その声には、感謝と、そして微かな甘えが滲んでいた。
「ん? どうした?」
桂火は、首を傾げて宵を見た。
彼の瞳は、宵の感情の揺らぎを、静かに受け止めているようだった。
「……この手は、とても温かいのですね。まるで、春の陽だまりのようです」
宵の言葉に、桂火は一瞬、目を見開いた。
そして、すぐに口元に微かな笑みを浮かべる。
その笑顔は、市場の喧騒の中でも、宵の目にだけは、特別に輝いて見えた。
「そりゃ、あんたの手が冷えてるからだろう?もっとしっかり握ってろ。冷えちまうぞ」
そう言って、桂火は宵の手を、さらに優しく、しかし確かに握りしめた。
その掌の温もりが、宵の心臓にまで届き、凍てついていた心の奥を、ゆっくりと溶かしていくのを感じる。
人々の活気に満ちた市場の喧騒の中で、宵の心は、桂火の温かい手に導かれるように、少しずつ、しかし確かに癒やされていくのを感じていた。
それは、彼女が本当に求めていた『契り』の形なのかもしれない。
――今は、形だけの夫婦であっても、この温かさが、彼女の心を真に満たしていくのだった。
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