与汰郎ばなし ―流され損ねた鰻の語り―
鳥見静
第一話「流され損ねた鰻」
へぇ、そこのお客さん。
驚くのも無理はございませんや。あっしも最初はびっくりしましたもの。鏡を見て「あれ、これ
ちょいと待った、そこの奥さん。逃げちゃいけませんよ。確かにあっしは鰻で、確かに喋ってますが、別に化けて出たわけじゃございません。まぁ、化けて出たようなもんかもしれませんが。
まずは落ち着いて、そちらに腰をお掛けください。
え?なんで鰻が
いやぁ、それがですね。あっし自身、よくわからないんですよ。気がついたら
「おやおや、これは便利だ」
と思いまして、せっかくだから一席
あ、そちらの旦那。顔が青いですよ。大丈夫ですか?酒の飲み過ぎじゃありませんか?まぁ、鰻が喋ってりゃ誰だって青くなりますわな。
でもね、考えてみてください。あっしだって困ってるんです。本来なら今頃、遥か南の海で子を産んで、静かに死んでいるはずだったんですから。
そう、あっしは流され損ねた鰻なんです。
昔々……といっても、つい先日のことですが。あっしは
板前の親父さんがね、実に手際よく包丁を構えて。「すまないねぇ」なんて声をかけてくれて。ああ、いい職人さんだなぁと思いながら、あっしは覚悟を決めたんです。
ところがどうでしょう。
包丁が首筋に当たった瞬間、急に店の外が騒がしくなって。何でも隣の
残されたあっし、桶の中でぼんやり考えてたんです。
「あぁ、死に損ねちまった」
でもね、その時ふと思ったんですよ。あっしの命って、これで終わりなのかなぁって。
あっしはね、生まれた時から変わった鰻でして。普通の鰻は透明な体で生まれて、それから黒くなるもんなんですが、あっしはなかなか色が付かなかった。いつまでもひらひら、ふわふわ、透き通ったまま。
川を流れながら思ったもんです。「あっしって、ちゃんと存在してるのかなぁ」って。
誰にも気づかれない。誰にも見つからない。
でも、流れてるうちに少しずつ分かってきたんです。見えないからって、いないわけじゃない。感じられないからって、何もないわけじゃない。
川の底で泥にもぐって過ごした長い年月。夜中にこっそり餌を探して、大きな魚から逃げ回って。誰も見てないと思ってたけど、月が見てた。星が見てた。川の流れが、ちゃんと覚えてた。
そうやって気がついたら、あっしは大きくなってたんです。立派な鰻に。
でも立派になったところで、結局は食べられる運命。川福の親父さんに捕まって、蒲焼きの材料になる予定だった。
それでもね、あっしは不思議と恨めしくなかったんです。親父さんの包丁さばき、見事なもんでした。あっしの命を、ちゃんと大切に扱ってくれてる。そんな気がしたんです。
食べる人も、美味しそうに箸を動かしてくれるでしょう。「ああ、いい鰻だった」なんて言ってもらえるかもしれない。
それならそれで、悪くない最期だと思ったんです。
ところが、火事のおかげで死に損ねちまった。
桶の中で考えました。あっしの命、これからどうしたらいいんだろうって。
そうしたら急に、誰かの声が聞こえてきたんです。
「語ればいいじゃないか」
誰の声かは分からない。でも、妙に
そうか、語ればいいのか。
あっしが見てきたもの、感じてきたもの、川の底で学んだこと。それを誰かに話して聞かせれば、あっしの命も無駄にならない。
透明だった頃の心細さも、泥の中の静けさも、親父さんの優しい包丁も、全部ひっくるめて、誰かに伝えることができれば。
そんなことを考えてたら、気がついたらここにいたってわけです。
皆さん、まだ顔が青いですが、大丈夫ですか?
あ、そちらのお嬢さん。泣いてらっしゃる?
いやいや、泣くほどのことじゃございませんよ。あっしは今、とても幸せなんです。だって、こうして皆さんにお話しできるんですから。
死んだはずの鰻が、まだここにいる。声に出して、心に響かせて、記憶に残して。
案外、命ってのは思ってるより長いのかもしれませんねぇ。
……と、今夜はこれまで。
また明日も、あっしの話を聞いてくださいますか?まだまだお話ししたいことが、山ほどあるんです。
川の流れのように、ゆっくりと。でも確かに、前へ進みながら。
それでは皆さん、お疲れさまでございました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます