与汰郎ばなし ―流され損ねた鰻の語り―

鳥見静

第一話「流され損ねた鰻」

 へぇ、そこのお客さん。


 驚くのも無理はございませんや。あっしも最初はびっくりしましたもの。鏡を見て「あれ、これうなぎじゃないか」って。


 ちょいと待った、そこの奥さん。逃げちゃいけませんよ。確かにあっしは鰻で、確かに喋ってますが、別に化けて出たわけじゃございません。まぁ、化けて出たようなもんかもしれませんが。


 まずは落ち着いて、そちらに腰をお掛けください。澪ノ町みおのまち河岸寄席かしよせ今宵こよいの語り手は与汰郎よたろうと申します。鰻の与汰郎でございますよ。


 え?なんで鰻がしゃべるのかって?


 いやぁ、それがですね。あっし自身、よくわからないんですよ。気がついたら高座こうざに上がってて、皆さんの前で口をぱくぱくやってるじゃありませんか。最初は水を求めて口をぱくついてたんですが、どうも声が出るらしい。


「おやおや、これは便利だ」


 と思いまして、せっかくだから一席もうけさせていただこうかと。


 あ、そちらの旦那。顔が青いですよ。大丈夫ですか?酒の飲み過ぎじゃありませんか?まぁ、鰻が喋ってりゃ誰だって青くなりますわな。


 でもね、考えてみてください。あっしだって困ってるんです。本来なら今頃、遥か南の海で子を産んで、静かに死んでいるはずだったんですから。


 そう、あっしは流され損ねた鰻なんです。


 昔々……といっても、つい先日のことですが。あっしは御留河おとめがわの奥、柳見通やなぎみりの老舗しにせ川福かわふく」って鰻屋で、まさに蒲焼かばやきになろうとしておりました。


 板前の親父さんがね、実に手際よく包丁を構えて。「すまないねぇ」なんて声をかけてくれて。ああ、いい職人さんだなぁと思いながら、あっしは覚悟を決めたんです。


 ところがどうでしょう。


 包丁が首筋に当たった瞬間、急に店の外が騒がしくなって。何でも隣の提灯屋ちょうちんやから火が出たとかで、親父さん、あっしをおけに放り込んだまま火消しに駆け出しちゃった。


 残されたあっし、桶の中でぼんやり考えてたんです。


「あぁ、死に損ねちまった」


 でもね、その時ふと思ったんですよ。あっしの命って、これで終わりなのかなぁって。


 あっしはね、生まれた時から変わった鰻でして。普通の鰻は透明な体で生まれて、それから黒くなるもんなんですが、あっしはなかなか色が付かなかった。いつまでもひらひら、ふわふわ、透き通ったまま。


 川を流れながら思ったもんです。「あっしって、ちゃんと存在してるのかなぁ」って。


 誰にも気づかれない。誰にも見つからない。


 でも、流れてるうちに少しずつ分かってきたんです。見えないからって、いないわけじゃない。感じられないからって、何もないわけじゃない。


 川の底で泥にもぐって過ごした長い年月。夜中にこっそり餌を探して、大きな魚から逃げ回って。誰も見てないと思ってたけど、月が見てた。星が見てた。川の流れが、ちゃんと覚えてた。


 そうやって気がついたら、あっしは大きくなってたんです。立派な鰻に。


 でも立派になったところで、結局は食べられる運命。川福の親父さんに捕まって、蒲焼きの材料になる予定だった。


 それでもね、あっしは不思議と恨めしくなかったんです。親父さんの包丁さばき、見事なもんでした。あっしの命を、ちゃんと大切に扱ってくれてる。そんな気がしたんです。


 食べる人も、美味しそうに箸を動かしてくれるでしょう。「ああ、いい鰻だった」なんて言ってもらえるかもしれない。


 それならそれで、悪くない最期だと思ったんです。


 ところが、火事のおかげで死に損ねちまった。


 桶の中で考えました。あっしの命、これからどうしたらいいんだろうって。


 そうしたら急に、誰かの声が聞こえてきたんです。


「語ればいいじゃないか」


 誰の声かは分からない。でも、妙にに落ちた。


 そうか、語ればいいのか。


 あっしが見てきたもの、感じてきたもの、川の底で学んだこと。それを誰かに話して聞かせれば、あっしの命も無駄にならない。


 透明だった頃の心細さも、泥の中の静けさも、親父さんの優しい包丁も、全部ひっくるめて、誰かに伝えることができれば。


 そんなことを考えてたら、気がついたらここにいたってわけです。


 皆さん、まだ顔が青いですが、大丈夫ですか?


 あ、そちらのお嬢さん。泣いてらっしゃる?


 いやいや、泣くほどのことじゃございませんよ。あっしは今、とても幸せなんです。だって、こうして皆さんにお話しできるんですから。


 死んだはずの鰻が、まだここにいる。声に出して、心に響かせて、記憶に残して。


 案外、命ってのは思ってるより長いのかもしれませんねぇ。


 ……と、今夜はこれまで。


 また明日も、あっしの話を聞いてくださいますか?まだまだお話ししたいことが、山ほどあるんです。


 川の流れのように、ゆっくりと。でも確かに、前へ進みながら。


 それでは皆さん、お疲れさまでございました。

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