第一話 静かな浸透
2025年7月上旬、名古屋市西区の住宅街。
78歳の田中義雄は、毎朝6時に起床する規則正しい生活を送っていた。
定年退職してから10年、妻を亡くしてからは一人暮らしだったが、近所付き合いは良好で、地域の高齢者サロンにも積極的に参加していた。
しかし、慢性的な腰痛が彼の悩みの種だった。
「また痛みが...」
朝の洗顔中、腰に鋭い痛みが走った。
整形外科で処方された痛み止めは効果が薄く、湿布も気休め程度でしかなかった。
「田中さん、おはようございます」
家の前で新聞を取っていると、隣に住む〇国系の男性、王建国が声をかけてきた。40代前半で、日本語は非常に流暢。
貿易関係の仕事をしているという話だった。
「おはよう、王さん。今日も暑くなりそうですね」
「そうですね。ところで、田中さん、腰の調子はいかがですか?昨日、痛そうにされていたので」
王の気遣いに、田中は感謝の気持ちを抱いた。
「ありがとう。相変わらず痛くて困っています」
「実は、良いものがあるんです」
王は自宅から小さな紙袋を持ってきた。
中には白い粉末が入っている。
「これは〇国の伝統的な漢方薬です。私の祖母が腰痛に使っていました。天然成分だけなので、副作用もありません」
田中は王の親切に感謝し、その日の夕方に「漢方薬」を服用した。
お湯に溶かして飲むと、確かに腰の痛みが和らいだ。
「これは効く」
それだけでなく、軽い多幸感も感じた。
久しぶりに心が軽やかになったような気がした。
「王さんに感謝しなければ」
田中は王の親切に深く感動していた。
しかし、彼は知らなかった。その「漢方薬」に0.01%のフェンタニルが混入されていることを。
翌週、田中は地域の高齢者サロンで友人たちに「漢方薬」のことを話した。
「王さんという〇国の方が、素晴らしい薬をくれたんだ」
「本当に効くの?」
慢性的な関節痛に悩む佐藤さん(75歳)が興味を示した。
「ああ、腰の痛みがすっかり楽になった。気分も良くなるんだ」
田中の推薦により、佐藤さんも王に相談することになった。
王建国は、田中の反応を注意深く観察していた。
「計画通りだ」
自宅のパソコンで、彼は暗号化されたメッセージを本国に送信した。
「ターゲット1号、順調に進行中。地域拡散開始」
王の正体は、〇国の特殊工作員だった。
FIRSKY株式会社の摘発後、組織は戦術を変更し、草の根レベルでの薬物浸透作戦を開始していた。
名古屋市立大学病院の内科医、山田健一は、最近の患者の変化に困惑していた。
「高齢者の患者で、原因不明の多幸症状を訴える人が増えている」
同僚の看護師に相談した。
「痛みは改善したと言うのですが、妙にハイテンションなんです。認知症の初期症状でしょうか?」
「分からないですね。でも、確かに最近そういう患者さんが多いです」
山田医師は、まだフェンタニルの可能性に気づいていなかった。
田中の娘、美咲(45歳)は、父親の変化に気づいていた。
「お父さん、最近妙に元気ですね」
月に一度の訪問で、美咲は父親の様子を観察した。
「ああ、腰の痛みが良くなったからな。王さんという親切な方が、良い薬をくれたんだ」
「薬?病院の薬ですか?」
「いや、〇国の漢方薬だ。天然成分で副作用もないそうだ」
美咲は少し心配になったが、父親が元気になったのは良いことだと思い直した。
一ヶ月後、田中は「漢方薬」なしでは生活できなくなっていた。
「王さん、薬がなくなりそうなんです」
「そうですね。でも、効果が出てきたので、少し強めのものに変えましょう」
王が渡した新しい袋には、0.05%のフェンタニルが含まれていた。
濃度は5倍に増加していたが、田中は気づかなかった。
名古屋市西区の住宅街で、静かな悲劇が始まっていた。
田中老人のような「患者第一号」は、市内に50人以上存在していた。
そして、彼らは皆、親切な〇国系住民から「漢方薬」をもらっていた。
王建国は、夜空を見上げながら冷たく微笑んだ。
「第二段階の準備を始めよう」
名古屋の街に、見えない毒が静かに広がっていく。誰も気づかないうちに、日本初のフェンタニル汚染都市への道筋が敷かれていた。
―第一話 終―
次回予告「医療現場の異変」
三ヶ月後、名古屋市内の救急搬送件数が急激に増加していた。
「原因不明の呼吸困難患者が続出しています」
名古屋市立大学病院の救急科医師、田中は困惑していた。患者の多くは高齢者で、共通点は「〇国系の知人から薬をもらった」ことだった。
「これは...フェンタニルの症状だ」
血液検査の結果を見た田中は愕然とした。アメリカで猛威を振るう合成麻薬が、ついに日本にも上陸していたのだ。
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