第2話「手がかりがありません」



わたしの子供返して!


第二話


あの夜の、絶叫。膝から崩れ落ちた妻、友奈を抱き起こしながら、浩一は震える手で警察に通報した。サイレンの音、慌ただしく出入りする警官たち、質問攻め。全てが悪夢のように現実感がなかった。ベビーシッターの山田花子、預けていたのは生後八ヶ月の息子、樹。誘拐だ、そう告げた時の声は、自分のものではないようだった。


しかし、警察の捜査は、驚くほど早く暗礁に乗り上げた。「山田花子」と名乗ったあの女の履歴書は、全てが偽りだった。住所も電話番号も、全てがでたらめ。本人確認書類も提出させていなかった自分たちの甘さが、今、牙を剥く。防犯カメラには、樹を抱いた山田が、フードを目深に被り、夜の街へ溶け込んでいく後姿が映っているだけ。他に有力な目撃情報も、足取りを追える痕跡もない。


「手がかりがありません」


冷静で事務的な刑事の声に、浩一は激昂した。「手がかりがない? あの女の名前も顔も分かってるんだ! ベビーシッターとして雇った記録だってあるだろう! なぜもっと大々的に探さないんだ!」と机を叩いた。だが、彼らが示したのは、偽装された個人情報を持つ犯人の捜索がいかに困難か、そして誘拐事件の全てに潤沢な捜査費用や人員を割けるわけではないという現実だけだった。捜査はすぐに停滞し、樹に関する情報は、毎日増え続ける未解決事件のリストの中に埋もれていった。


「もう、警察には任せておけない」


あの夜、署から戻った浩一は、そう呟いて、長年勤めた会社に辞表を出した。俺が探す。この手で、樹を見つけ出す。そう決意した彼の目には、悲しみ以上に、燃え盛るような怒りと、折れることのない執念が宿っていた。エリートとしての将来も、安定した収入も、彼の頭からは完全に消え失せていた。


私は、パートに出た。浩一の捜索活動には、想像以上の費用がかかる。交通費、印刷代、情報提供者への謝礼…全てが必要経費だった。浩一が外で我が子を探す間、私が家計を支え、彼の帰る場所を守る。それが、当時の私にできることだった。疲労困憊で帰宅し、泥のように眠る浩一の顔を見ながら、私は心の中で何度も繰り返した。大丈夫。樹は生きている。きっと、無事に戻ってくる。根拠のない「信じる」ことだけが、私の心を繋ぎ止める唯一の希望だった。それは、探すという執念とは違う、静かで、しかし脆い祈りだった。


三年が経った。


三年の間、浩一は全国を奔走した。街角で樹の写真とベビーシッターの似顔絵が描かれたチラシを配り、ネットの掲示板で情報を呼びかけ、似たような誘拐事件のケースを調べ上げ、時には手がかりになりそうな些細な情報のためだけに遠方まで飛んだ。その体はボロボロになり、表情からは一切の感情が消え失せ、ただ「探す」という機能だけが残っているようだった。


私の日常は、パートと家事、そして浩一を支えることだった。友人との付き合いも疎遠になり、世間から取り残されていくような感覚に襲われることもあった。街を歩けば、同い年くらいの子を持つ親子連れが目につく。その度に、樹が生きていれば今頃こんな風に…と胸が締め付けられた。信じている、そう自分に言い聞かせながらも、絶望の淵はすぐそこにあった。


あの日も、いつものようにパート帰りの道を歩いていた。雑踏に紛れて歩きながら、ぼんやりと行き交う人々を見ていた時だった。ショッピングモールのエントランス前で、立ち止まった。若い女性が、小さな男の子の手を引いて歩いている。その子の後ろ姿、纏う空気感に、私の心臓が跳ね上がった。


幻か? 三年の間に、何度も似たような子供を見ては、期待して、そして絶望してきた。今回も、きっとそうだろう。


でも…何か違う。


その子が、ふと母親らしき女性を見上げて笑った。その横顔。


まさか。樹?


血の気が引いていく。足が震える。三年間の全てが、その瞬間に凝縮されたように、頭の中で駆け巡った。


次に、私はその女性の顔を見た。


あの女だ。


三年経って、髪型も、雰囲気も少し変わっていたかもしれない。だが、絶対に、まちがいがない。


忘れるはずがない! その女の、顔!


「う、嘘…」


声にならない呟きが漏れた。私の体は、もう私の意思とは無関係に動いていた。周囲のざわめきが遠ざかる。頭の中は、樹と、あの女の顔だけでいっぱいになる。


駆ける。


「ちょっと! まちなさいよ!」


悲鳴のような声だった。目の前の女性が驚いて立ち止まり、私を見た。その目に、三年前のあの女の怯えと、しかし今回は明確な敵意のような光が宿っているのを見た。


「あなた! 樹を、私の樹を返しなさいよ!」


我を忘れて叫ぶ私に、周囲の視線が集まる。何事だと、人々が足を止める。


「な、何ですか急に! 人違いですよ!」若い女性は明らかに狼狽している。そして、私から子供を庇うように、子供を後ろに隠した。


「人違いなわけないだろう! その子よ! 私の子なのよ! 返して! 樹を返しなさい!」


わめき散らす私に、若い女性は顔色を変え、**「いつき? この子はそんな名前じゃないわ! 頭おかしいんじゃないの?!」**と叫んだ。周囲のざわめきが大きくなる。「どうしたんだ?」「なんだあれ」「頭おかしいんじゃないの?」そんな声が聞こえてくる。数人が私を取り押さえようと、腕を掴んできた。


「離せ!離しなさいよ!樹を、私の樹を返せー!」


掴まれた腕を振り払いながら、私はただ、目の前の女性と、その子供に向かって叫び続けた。


「返せー! わたしの樹!」


混乱の中、誰かが携帯で話し始めた声が聞こえた。「警察だ、警察を呼べ!」


騒ぎは収まるどころか、大きくなる一方だった。私は必死で抵抗し、叫び続けた。そこに、制服姿の男たちが駆けつけてきた。


「皆さん、大丈夫ですか? どうされました?」


冷静な声が響き、人垣を割って警官が近づいてくる。周囲の人々が状況を説明し、私を指差す。「この人が急に子供に詰め寄って!」「頭がおかしいみたいで…」


友奈は、警官の顔を見上げた。そして、再び目の前の女性に視線を戻す。あの女だ。間違いない。


警官が、私に声をかけた。「奥さん、一体何があったんですか?」


私は、震える声で答えた。


「あの女が…私の子供を…誘拐したんです」


警官は困惑した顔で、私と若い女性を交互に見た。


「ええと、詳しくお話を伺いたいんですが。とりあえず、署までご同行願えますか?」


第三話予告


連行された警察署で、友奈は三年前の悲劇を語る。しかし、彼女の主張は、周囲の無理解と、目の前の「普通」の親子によって阻まれる。「この人は人違いをしている」――若い女性の冷静な証言が、友奈を窮地に追い込む。信じたい警察官、疑う警察官。そして、駆けつけた夫・浩一の反応は? 真相は、まだ遠い。

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