【わたしの子供を返して!】
志乃原七海
第1話わたしの子供返して!
わたしの子供返して!
第一話
私たち夫婦、友奈と浩一は、結婚して三年になる。共働きで、慌ただしくも充実した日々を送っていた。お互いを尊敬し合い、ささやかな幸せを積み重ねる毎日。ただ一つ、足りないものがあった。子供だった。
授からないまま過ぎる時間に、漠然とした不安が募ることもあったけれど、二人でいれば大丈夫、そう言い聞かせていた。だから、検査薬に二本線が浮かび上がったあの日のことは、今でも鮮明に覚えている。震える手で友奈がそれを見せ、浩一が無言で強く抱きしめてくれた。涙が止まらなかった。三年分の願いが、ようやく形になった瞬間だった。
妊娠期間は、まさに奇跡の連続だった。小さな命が確かな存在感を増していくのを感じるたび、世界の色が変わるようだった。悪阻も、体の変化も、未来への希望の前では取るに足りなかった。そして予定日を少し過ぎた春の晴れた日、私たちは天使を授かった。
男の子だった。「樹」と名付けた。すくすくと育つ我が子を見ていると、ただそれだけで胸がいっぱいになった。小さな指、ミルクを飲む時の満足そうな寝顔、ふとした時に見せる笑顔。その全てが、私たち夫婦にとっての世界の全てになった。
しかし、私たちには共働きという現実があった。二人とも会社員で、簡単にどちらかが仕事を辞めるわけにはいかない。産休育休を終え、話し合った末、私たちはベビーシッターに頼むことに決めた。後ろ髪を引かれる思いだったけれど、これも樹のため、家族のためだと信じた。
何人かの候補の中から、私たちは一人の女性を選んだ。「山田花子」、履歴書にはそうあった。三十代前半、結婚していて、子供もいると書かれていた。面接での彼女は、控えめながらも落ち着いた雰囲気で、子供好きであることも伝わってきた。私たちと同じように子育ての経験があるという事実に、何よりも安心感を覚えた。彼女になら、大切な樹を任せられる。そう信じて、私たちは契約を結んだ。
山田さんは、週に三回、午前中から昼過ぎにかけて樹の世話をしてくれることになった。最初こそ、慣れない他人が家にいることに緊張したが、山田さんはすぐに樹の生活リズムに順応し、手際よく世話をしてくれた。樹もすぐに慣れたようで、山田さんにはあまり泣かない。その様子を見て、私たちは心底ホッとした。これで安心して仕事に行ける。
山田さんは、いつも静かに樹の世話をしていた。言葉数は多くなかったが、樹に向ける眼差しは優しかった。ミルクを飲ませる時、絵本を読んでやる時、寝かしつける時。その手つきは、確かに我が子に接する親のそれのように見えた。私たちは、やはり子育て経験がある人を雇って正解だったと思った。
ただ、時折、ほんの少しだけ違和感を覚える瞬間があった。樹を抱きしめる山田さんの力が、少しだけ強いような気がしたり、夫婦で樹を可愛がっているのを見ている時の彼女の表情が、一瞬だけ硬く、暗く見えたりしたことがあった。気のせいだろうか。仕事で疲れているのだろう。そう思って、私たちは深く考えなかった。
ある日、浩一と二人で樹の寝顔を見ながら、私たちは未来の話をしていた。「早く一緒に公園に行きたいね」「小学校、どこにしようか」「樹が結婚する時、私たち泣いちゃうかな」。そんな他愛もないけれど、私たちにとっては何よりも大切な夢を語り合っていた。その時、ふと背後に気配を感じて振り返ると、山田さんが廊下の隅に立っていた。どうしたのだろうと声をかけようとした時、彼女の顔を見て、私たちは息を飲んだ。
そこに映っていたのは、私たちの幸せな光景に対する、言いようのない憎しみと、深い悲しみが混じり合ったような、歪んだ表情だった。しかし、すぐに彼女はいつもの無表情に戻り、「すみません、何かお手伝いすることはありますか」と事務的に言った。私たちは、見間違いだったと思い込もうとした。まさか、私たちの幸せが、誰かを憎しませるなんて。
その日の夜、私たちは久しぶりに外食に出かけることにした。樹は山田さんに預けた。いつものように、樹にミルクとオムツ、遊び道具を用意し、帰宅時間を伝えた。山田さんは淡々と頷いた。
二時間ほどで帰宅し、私たちは玄関のドアを開けた。「ただいまー!」と声をかけたが、返事がない。静かだった。樹が眠っているのだろうか? 山田さんは? リビング、寝室、キッチン…どこにもいない。樹のベビーベッドは空っぽだった。
心臓が、嫌な音を立てる。家中を探し回る。樹の小さな洋服、おもちゃ、哺乳瓶…全てがあるのに、肝心の樹がいない。山田さんの私物も、全てそのまま残されている。まるで、一瞬で消え失せたかのように。
「樹! 樹!」
声にならない悲鳴を上げながら、友奈は部屋中を駆け回った。浩一もまた、血相を変えて家の中を捜す。
ふと、玄関のドアが半開きになっていることに気づいた。風が冷たく吹き込んでくる。まさか。
友奈は、玄関に立ち尽くした。そこに、山田さんが樹を抱いて立ち去る後ろ姿を見たような気がした。いや、確かに見た。
膝から崩れ落ち、友奈は絶叫した。
「わたしの子供……返して!!!」
その叫びは、静まり返った夜の住宅街に、虚しく響き渡った。幸せな日々は、あまりにも唐突に、終わりを告げた。
第二話予告
絶望の淵に突き落とされた夫婦。警察の捜査は? そして、消えたベビーシッターと我が子「樹」の行方は? 3年という空白の時間が、夫婦の絆を試す。
第二話、追跡の始まり。
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