「桜の約束は、四年後の春に」

竜土水さく

第1話 春風、再会

春の風は、どうしてこんなに懐かしい香りがするのだろう。

 キャンパスの中庭に咲いた八重桜が、陽に照らされて光っている。新歓シーズンのこの時期、通りすがる先輩たちは誰彼かまわず声をかけ、パンフレットを手渡していく。


 そんな中、俺――佐原駿は、ひとりで構内を歩いていた。

 高校時代に馴染みのあった軽音部のビラをなんとなく受け取り、けれどその場で捨てるようなこともできず、鞄にしまう。正直、入りたいサークルも、話したい相手もいない。ただ、大学生になったという実感だけが、どこか遠い。


 その日の夜、大学のあるサークルの新歓コンパに誘われていた。参加の可否をはっきり伝えていなかったが、断る理由もない。断ってしまえば、本当に誰とも話さないまま、四年間が始まってしまいそうで――それが、少しだけ怖かった。


 そして、夜になった。


 新歓コンパが開かれたのは、大学近くのこぢんまりとした居酒屋だった。通されたのは二階の座敷。長いテーブルに、既に何人かの新入生が座っている。先輩らしき人たちが、明るく笑いながらビールを注いでいた。


「佐原くん、こっち空いてるよ〜」


 中途半端な席に通されて、緊張を隠すようにグラスの水を手に取った。

 向かいには見知らぬ男子学生、隣には空席。その空席に目をやった瞬間だった。


 ――風が通り抜けたような気がした。


 誰かが俺の隣に腰を下ろす。視線を向けた瞬間、胸の奥が何かに掴まれるように固まった。


 その横顔を、忘れられるわけがなかった。


 切り揃えられた前髪。白く透き通るような肌。

 長い睫毛の下で、どこか迷いのある眼差しが、ゆっくりとこちらを向いた。


「……駿?」


 耳に、名前が落ちた。


 声も、記憶のままだった。あの春の午後、別れを言えなかったまま消えていった、幼なじみ。


「……風花?」


 静かな間が流れたあと、彼女は少し笑った。


「うそ。こんなとこで会うなんて」


 彼女の名前は、花村風花。

 俺の隣の家に住んでいて、小学校から中学まで、毎日のように一緒に登下校していた。


 でも――中学卒業と同時に、突然引っ越していった。

 理由も告げられないまま、彼女は消えてしまった。


「すごい偶然だね。まさか同じ大学だったなんて」


「……ああ、ほんとに」


 風花の笑顔は、どこか緊張していた。俺もきっと、同じ顔をしていたと思う。


 周りでは、自己紹介や笑い声が飛び交っているのに、ふたりの間だけ、何年分かの静けさが流れていた。


 グラスに口をつけるふりをして、彼女の横顔を盗み見る。

 中学のころ、教室の窓際で、桜を見上げていた彼女を思い出す。


「……そういえば、引っ越したんだよな」


 不意に、言葉が漏れた。


「うん。中学卒業してすぐ。お父さんの転勤で」


「……何も言わなかったじゃん」


 少しだけ責めるような口調になってしまったことを後悔した瞬間、風花は目を伏せた。


「……言えなかった。たぶん、言ったら、泣いちゃうと思ったから」


 その言葉は、あまりにも静かで、正直だった。

 俺は言葉を失って、ただ頷いた。


「駿は……変わってないね」


「そっちこそ」


「ふふ。お互い様か」


 笑い合って、グラスを鳴らした。


 再会は、奇跡のようだった。

 でも、再会しただけでは、失われた時間は戻らない。


 何を話せばいいのか、何から話すべきなのか――

 その夜、俺たちは互いの名前を一度だけ呼んで、ふたたび沈黙した。


 風花は二次会には参加せず、帰り際、俺に小さく手を振った。


「また、ね」


 その「また」が、本当になるのかどうかもわからないまま。

 彼女は春の風にまぎれて、ふたたび俺の前から消えていった。

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