最終章【凪の炎】

海は、静寂の中でゆっくりと割れた。


そこから現れたのは、人の形をしていながら、人ではない存在。


黒くうねる髪、青白い肌、異様に長い腕。

その瞳は、底知れない怒りを湛えていた。


――神。


美咲と梨花は、二人で手を繋ぎ、その姿を見据えた。


「これが……神……」


神は、低く重く唸りながら、ゆっくりと歩を進める。


――生贄はどこだ。


――誰が、我を鎮める。


その声は、町中に響き、人々の頭の中にまで突き刺さってくる。


「……私たちが止める。」


美咲は、一歩前に進んだ。


「私は、誰も差し出さない。誰も、生贄になんかしない。」


神の視線が、美咲に向く。


――赤紐の者よ。


――汝が我を縛るというか。


「縛る。」


美咲は、強く答えた。


「私たちで、あなたを封じる。」


――ならば、汝らの力、見せてみよ。


神の全身が、不気味な光を帯び始めた。


次の瞬間、強烈な衝撃波が二人に向かって放たれた。


「梨花、しっかり!」


「うん!」


二人は、互いに結んだ赤紐をしっかりと握りしめる。


「凪――発動!」


二人の周囲に、水色の結界が広がり、神の衝撃波を見事に打ち消した。


「もう一度!」


「凪――発動!」


二人の声が重なった瞬間、青い炎が彼女たちを包み込む。


赤紐は、強烈に輝き、美咲の手首には青く燃える紋様が刻まれた。


(これが……神結びの力。)


(私は――)


「私は、あなたを封じる!」


美咲は叫び、赤紐を前に突き出した。


青い炎が神の身体を覆い、ゆっくりと神を締めつけていく。


だが――


――ひとりでは足りぬ。


神が、暴れだした。


「梨花!」


「私は、大丈夫!」


梨花も赤紐を強く引き、必死に神を押さえ込む。


二人の赤紐は、青い炎に包まれたまま、互いに強く結びついている。


美咲は深く呼吸を整え、心を一点に沈めた。


(凪は、一瞬の静寂。)


(この一瞬が、全てを決める。)


「――今だ!」


二人は、最後の力を振り絞り、叫んだ。


「凪――封印!」


青い炎が一気に爆発し、神の姿を包み込んだ。


神の唸り声が、海に、空に、世界に響き渡る。


――汝ら、よくぞここまで。


――次は、いずれ、また会おう。


最後の言葉を残し、神の身体は青い炎に溶け、静かに消えていった。


海は、ゆっくりと引いていく。


強風も止み、町は――救われた。


美咲は、その場に崩れ落ちた。


梨花も、隣で息を切らしていた。


「……終わった、のかな?」


「……うん。」


二人の赤紐は、静かにほどけて、青い光とともに、風に舞っていった。


美咲の手首には、もう紐はない。


青い紋様も、いつの間にか消えていた。


「美咲……手首……」


「……跡、なくなってる。」


梨花も、自分の手首を見た。


「……私も。」


美咲は、ふっと笑った。


「夢みたいだね。」


「でも……ちゃんと、残ってるよ。」


梨花は、美咲の胸元を指さした。


そこには、ほんのりと、青く光る小さな印が、静かに輝いていた。


「きっと、これが……私たちが繋いだ証だね。」


町は静かに、また日常を取り戻し始めた。


人々は、この出来事をまるで“なかったこと”のように忘れていった。


でも――美咲は、忘れない。


あの日、あの場所で、蓮と出会い、梨花と繋がり、神を封じたことを。


そして――最後に。


美咲は、一人、海のあった場所を訪れた。


そこには、もう海はない。廃墟と、静かな風だけが残っていた。


「……ここで、全部終わったんだよね。」


誰も知らない場所。


誰も覚えていない歴史。


ふと、視界の端に、年老いた一匹の猫が現れた。


美咲はゆっくりと微笑んだ。


「……久しぶり、蓮。」


猫は、一度だけ小さく「ニャ」と鳴き、ゆっくりと去っていった。


美咲は、赤紐のない手首を見つめながら、静かに立ち上がった。


これで、本当に終わり。


でも、きっと――


また、いつか。


そう思いながら、美咲は、未来へと歩き出した。

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