第壱章【暗闇の夢】

 真っ暗な海の底のような場所に、彼女は立っていた。

 どこまでも広がる暗闇。足元も、空も、境界がない。呼吸はできるが、空気があるのかもわからない。体の輪郭が、少しずつ曖昧になっていく。


 その時、かすかに――誰かの声がした。


 「たすけて」


 声は少女の耳に直接響くようにして届いた。

 掴みどころのない声だ。男か女かもわからない。幼いのか、大人なのかも判断できない。ただ、その声には強い切実さがあった。


 「たすけて……」


 再び声がした瞬間、彼女の目の前に、赤い紐が浮かび上がった。


 細くて、やわらかそうな、けれど妙に艶やかな赤い紐。

 宙にふわりと漂いながら、彼女の手首に巻きつく。


 「――あ、あれ……?」


 声を出そうとした瞬間、目の前が白くはじけ、彼女は目を覚ました。


 *


 「……変な夢」


 朝。布団の中で彼女は小さく呟いた。

 夢の余韻は濃く残っている。あの声、あの赤い紐――まるで現実だったかのように。


 登校の準備をしながら、彼女はスマホのカレンダーに今日の日付を入力した。

 【4月5日 夢:助けてと言われた。赤い紐。】


 夢日記は彼女の密かな習慣だった。忘れたくない夢だけを、こうして記録しておく。


 制服に着替え、家を出る。家は海沿いの町にあった。かつて漁業で栄えたが、今はほとんど廃れた町。小さな港と寂れた商店街。だけど、彼女はこの町が嫌いじゃなかった。


 歩きながら、ふと自分の手首を見た。


 「……」


 細い赤い紐が、そこにあった。


 夢で見た、あの赤い紐。

 柔らかそうで艶やかな、全く同じものが、彼女の左手首に結ばれている。


 驚いて急いでほどこうとしたが、結び目はしっかりしていて、解けない。


 「なにこれ……」


 学校に着くと、彼女――美咲(みさき)は親友の梨花(りか)に赤紐のことを話した。


 「え、夢に出てきたやつが現実に?……なにそれ怖い!」


 梨花は興味津々というより、どこか楽しんでいるようだった。


 「でも、赤い紐って、なんか運命っぽくない? もしかして、前世の恋人とかじゃない?」


 「いやいや、そんなキラキラした話じゃないって。夢で『たすけて』って言われたんだよ? ぜんぜんロマンチックじゃない……」


 美咲は不安でいっぱいだったが、梨花の軽い反応に少しだけ救われた。


 その日の授業はどこか上の空だった。何度も手首の赤紐を確認し、触れ、でも誰にもそれが見えないことに気づく。


 「……もしかして、私だけが見えてるの……?」


 放課後、美咲は家に帰り、祖母の遺した古い日記を読み返した。祖母は昔から「この町には、時々不思議なことが起こる」と言っていた。もしかしたら何か手がかりがあるかもしれない。


 ページをめくると、一つの名前が目に入った。


 『凪野 蓮(なぎの れん)』


 その横に、小さく赤い紐のイラストが描かれている。


 「凪野蓮……誰?」


 日記には、それ以上詳しいことは書かれていなかった。


 だけど、美咲は確信した。


 ――夢で聞いた、あの声の主の名前だ。


 彼女は、夢と現実が、これから密接につながっていくことを、まだ知らなかった。

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